ドイツ個人旅行のガイド藤島が体験したベルリンの壁のお話です。
1989年11月9日の崩壊したベルリンの壁について、1980年から85年まで旧東ドイツに住み、
現在では個人旅行のお客様をご案内しているガイドが、ベルリンの壁の建築から崩壊、そしてドイツ統一までの
歴史をつづります。
ベルリンの壁の話 その14
東西ドイツが統一されたと同時に最初に行われたのは、アウトバーンの改修、および建設であった。
東側には約2200キロのアウトバーンが走っていたのだが、西ドイツのハンブルク、ハノーヴァー、
ニュルンベルクから西ベルリンに抜けるアウトバーンは、西ドイツ政府が援助金を出して改修、修復していたので
それほど悪くはなかったのだが、それ以外の東ドイツ国内、特にドレスデン-バウツェン、プラウエン-ドレスデン間の
アウトバーンなどは、穴だらけで、所によっては戦前の石畳のままで全く手がつけられていないところもあり、
最悪の状況であった。
その修理、改修が始められ、そのせいで、あちこちで工事のために渋滞が起きることになった。
加えて、電話網である。
電話は東ドイツでは贅沢品であり、仕事上どうしても必要な人以外は所有していなかった。
統計では、普及率は3分の1程度となっているのだが、とても信じられない。
私の身の回りで電話を持っている人はほとんどいなかった。
面白い話だが、74年にドレスデンの友人宅を訪れた時、「電話が引かれることになっていて、もう電話番号も
もらっている」、と彼が自慢げに話したのだが、実際に電話が引かれるのは来年になる、という話をしていた。
その電話回線も、戦前のものをそのまま使っているらしく、非常に感度が悪く、おまけに盗聴されているのは常識である。
公衆電話は西ドイツ製の機械を使っていたが、しょっちゅう故障しており、特に外国に電話をかける場合は郵便局で
かけることが多かった。
一度、日本に国際電話をかけたことがあったが、国内にかけるりもよく声が通じたものである。
西ドイツから東に電話はできたのだが、東から西ドイツにかけられたのだろうか?
統一直後、西側から東に進出した企業で、オフィスに電話が付いてない場合には、出て間もない携帯電話を
使用していたようである。
このアウトバーンと電話回線の整備は3〜4年続くことになる。
さて、西ドイツ通貨が導入されてからは、東ドイツの製品が全くと言ってよいほど売れなくなってしまった。
そしてこれらを製造している工場、企業は全てVEB(国民企業)と呼ばれる国営企業であり、設備が老朽化しているために、
その生産性は非常に低く、おまけに従業員がやたらと多かった。
従業員はいるけれども、働いている人はいない。
それでも従業員が足りない。わかるかな〜?なんでだろ〜?
社会主義のキャッチフレーズとして、失業者がいない、というのは有名な話であるが、それと同時に、
失業者を作ってはいけない、ということを意味する。
ひとりで間に合う仕事を二人で分け合うような形で、失業者を出さないようにしていたわけである。
おまけに、その二人が全く仕事に身を入れないということであれば、もうひとりが必要となる…。
このような調子で、従業員が増え、おまけに設備が悪いために、その生産性が低く、故障した場合には
修理をするにも部品がない、あるいは届かない、いつになったら届くのかも分からない。
それが部品に限らず、材料、設備の修理のための機材などにも及んでいたし、たとえば、バナナが売りに出ていると聞けば、
皆仕事をほったらかしてそれを買うために並ぶ、工場長もそれを禁止はできない。自分でも欲しいのだから…。
信じられない話であるが、「うちの工場の労働者たちは怠け者で全く困ったもんだ」というぼやきは決して
珍しいものでもなかったのである。
品質管理はおろか、減価償却という観念もなく、国営企業であるから、その製品の売り上げ、そして利益なども
全く考えなくてもよかった。
全ては上からの指導によるものである。
新しいことをやって失敗して責任を問われるよりは、今のままの状態を継続して行けば、あるいは全て党の指導部の
言うことを聞いていれば、自分の身は安泰であり、製品開発、生産性向上などは他の人に任せておけばいい。
西はどんどん設備投資をして生産性を上げている中で、東が現状維持をしていれば、その差はそれだけ広くなる一方である、
という悪循環が継続し、生産性は西の半分であり、実質的に国も企業も破産状態で統一ということになった。
ちなみに国の負債は5000億東マルク(公定レートで35兆円)であった。
人口が1700万人の国であるから、一人当たりざっと200万円の負債を抱えていたことになる。
この国営企業を民間に売却するために組織されたのが、信託公社であった。この公社は、約1万2千の国営企業の他に、
ホテル、レストラン、商店など、合計3万の商業施設を管理、売却、そして廃業を委託されたのだが、
この国営企業に従事している労働者は合計で4百万人であった。
売る方としては、贅肉を取り除いて買う方に魅力あるものにしなければならない。
各企業での大量解雇が始まった。
それどころではない。
誰も買い手が付かないほどに老朽化したり、修理するよりは壊した方がいいというような工場などは、廃業するしかない。
要するに倒産であり、従業員は即時解雇された。あるいは、操業短縮、操業時間ゼロ時間、という措置が取られた。
この場合、給料は出るのだが、実質的には倒産と同様で、解雇されるのは時間の問題である。
このような失業者、半失業者がかなりの数に上ったのである。
信託公社は最初に、これら国営企業の総資産を2000〜6000億マルクと見積もり、1990年の夏にはその
販売価格を総額で8000億〜1兆マルクと踏んでいたのだが、1991年10月31日の報告書では、
わずか2000億マルクしかないことが判明したのだった。
分かりやすくいえば、倒産した会社を吸収合併する際には、本来であれば、その資産、負債状況を完全に把握してから、
ゴーサインを送るのだが、合併したとたんに、借金があっちからも、こっちからも出てきたという状況と同じである。
コール首相は連邦議会の席上で、「これほどひどいとは思わなかった」、と弁解した。
たとえばベルリンから80キロほど南のリュッベナウにある石炭火力発電所は、かなり大きなきな物であったが、
老朽化が激しく、しかもばい煙がひどく、結局は取り壊されてしまい、3千人の従業員が職を失った。
また、光学器械で有名な、カール・ツァイス・イエナは、2万人の従業員が結局は3千人に削減された。
大資本が入ったのは、トラバントを作っていたツヴィッカウと、ヴァルトブルクを作っていたアイゼナッハの工場で、
それぞれフォルクスワーゲンとオペルが買収し、最新の工場に再建した。
他にはマイセン陶器工場、ドレスデンの精密工場などが生き残った。
この信託公社は1994年末で2564億マルクの赤字を残したままで、その業務を終了した。
それまでに約3500の国営企業は解散し、8500が民営化され、そのうちの860件は外国資本が入った。
日本からの資本はほとんど入らなかったようである。
なぜかは明らかではないが、様子を見ようと思っているうちに、91年に湾岸戦争が勃発すると同時にバブル経済が
はじけてしまったせいもあるだろうし、以前にいくつかの企業が東ドイツの工場や、ホテルを建設した際に、
内部事情に精通していたという理由によるかもしれない。
この処置により、400万人の労働者のうち、91年3月の時点で約270万人が職場を失ってしまった。
そして都市によってあるいは職種によってなかなか失業率が下がらないものもあり、1995年になっても
ドレスデンでは15%以上、デッサウやザンガーハウゼンでは、それぞれ26、27%であった。
また、ホテルやレストラン、自動車修理工場やパン工場、レストランなどの個人営業を始めた事業主も、
慣れない経営、資金不足、市民の弱い購買力などが原因で、その業務を停止せざるを得ないケースがかなり出た。
また、小さな町の劇場やオーケストラは解散、あるいは合併の憂き目に会った。
失業手当が出るのだが、同時に以前よりは給料が上がっていたとはいえ、手取りの70%しか出ない。
生活費は西に比べて低いとはいうものの、かなり違うはずもない。
失業者は厳しい生活を強いられることになった。
それに加えて、統一されたとたん、西側から少なからぬ人たちが、もともとは自分、あるいはその親たちが所有していた、
東ドイツ政府によって強制的に没収した土地、建物、工場などを返して欲しいと要求してきた。中には300年以上も
前の登記簿を提出してきた人もいた。
東ドイツ政府が没収した土地を正式に買い求めて、自分の所有にしていた人にとっては、明け渡すなどとは
とんでもない話である。当然、信託公社が仲介することになる。
あるいは、私のドレスデンの友人のように、戦前からの建物を国から借り受けていたが、
突然西側から所有者が姿を現し、その人に家賃を払わねばならなくなった。
東ドイツ政府は、アパートの家賃をかなり安く押さえており、3部屋60平方メートル程度の
近代高層アパートは、光熱費を入れて60マルクほどで、給料の5%以下であったが、
西側のシステムを導入してからはそれも次第に高くなり、このようなことも生活を苦しめる原因になった。