ドイツ個人旅行のガイド藤島が体験したベルリンの壁のお話です。
1989年11月9日の崩壊したベルリンの壁について、1980年から85年まで旧東ドイツに住み、
現在では個人旅行のお客様をご案内しているガイドが、ベルリンの壁の建築から崩壊、そしてドイツ統一までの
歴史をつづります。
ベルリンの壁の話 その12
さて、統一は内側と外側の問題の処理が平行して行われていくことになる。
統一の仕方としては、結局は西ドイツが東ドイツを吸収合併したような形になってしまうのだが、
それには西側の諸般の社会制度を東に導入することが必要である。
そこで5月16日、西ドイツ政府は、連邦政府と州から拠出される合計1150億マルク(約8兆円)を、
1994年まで「ドイツ統一基金」として用意することにした。これは1989年の国家予算の約25%に相当する。
そして2日後の5月18日には両国間で、資本主義自由経済、個人所有の保障などに関する経済事項、
西ドイツマルクの導入、西ドイツの健康保険、年金制度、失業保険などの導入に関する二国間契約が交わされた。
一番の問題を呼んだのは、契約が交わされる前に発表されていた、西ドイツマルクの導入に関してであった。
コール首相は、原則として国民一人当たり2000マルクを、年齢により4000マルク、あるいは6000マルクを
1対1で両替し、それ以上は1対2で両替することを発表したのである。
先の選挙戦では、東西通貨の両替率を1対1にすると公約していた、と思っていた国民は裏切られた。
ところが、「努力する」とは言っているが、「約束する」とは言っていないのである。
この辺はどこかの国の議員の公約と似ている。
すでに西ドイツの金は使いきり、それでも西ドイツの通貨を手に入れたい場合には、闇で両替をせざるを得ず、
両替率は1対4、あるいは5、ひどい時には10までに跳ね上がった。
それに加えて、商品によっては東ドイツ製のものが全く売れなくなってしまっていた。
たとえば、パンティストッキングは東で14マルクしたが、西では1マルクである。
1対5の両替率で計算すると、東の製品は2,80マルクであり、西ドイツで買った方がずっと安いことになる。
コーヒー、チョコレートなども、東では結構高く、おいしい物ではなかったために、結局は値下げを強いられた。
それでも売れたかどうかは不明である。
逆に、安く価格統制されていたパンなどは、西ベルリンの人たちが闇で両替をして買いに行く、という現象が起きた。
東でパン一個が1マルク(70円)として、1対5で両替をすれば、これが20ペニヒ(14円)で買えることになる。
しかも、両替率を1対1としても、東ドイツの生産性は西の半分、労働者たちの賃金は半分以下であり、年金生活者は
さらに悪く、3分の1程度であった。
これはその価値が実質的には10分の1以下ということを意味する。
従って、コール政権が提示した数字は決して悪くはないものなのだが、国民はそうとは取れなかっただろう。
あっという間に自分の貯金が半分になってしまうのである。
給料、年金などは1対1のままで支払われるとしても釈然としなかったというか、期待はずれだったと思う。
さらには東ドイツ人以外で口座を持っている外国人は、89年の12月31日時点での残高を1対3で両替することになった。
その一方では、これで金儲けをした人間もいたはずである。
西ドイツマルクで1対5に両替をし、それを東ドイツの友人に預けておくのである。
たとえば、西1万マルクを東5万マルクに両替して友人の口座に預けておけば、後に1対2で両替されて
2万5千マルクになり、1万5千マルクの儲けになる。やっておけばよかった!
この西ドイツの通貨導入は90年の7月1日からと制定された。
6月15日、ドイツとNATOの関係を調整するために、コール首相とゲンシャー外相は再びソ連に飛び、
コーカサスでゴルバチョフと会談したが、ゴルバチョフは態度を軟化させ、NATO加盟に関してはドイツの自由裁量とするが、
駐留するNATO軍を1994年までに37万人に減少させる、という条件で合意した。
6月21日と22日には、西ドイツ連邦議会、参議院、東ドイツ人民議会が二国間契約と、ポーランドの
オーデル・ナイセ国境の最終確認を承認した。
これによってポーランドは自国の領地を最終的に認められ、正式に90年11月14日に両国間で調印され、安心することに
なるのだが、旧シュレジア地方出身で戦後にドイツに逃げてきた人たちは、故郷をポーランドに奪われてしまった。
地続きであるヨーロッパの悲劇というものである。
7月1日、通貨同盟の日がやってきた。
東ドイツ市民は銀行の窓口に並び、西ドイツマルクを手にすることができた、と同時に東ドイツの通貨は
使用できなくなった。
これからは何でも手に入るのである。
それと同時に、一夜にして東ドイツ国内には西側からの商品が流入し、商店に並び始めた。
もはや東側の商品には誰も目もくれない。
それでも売りさばくには、その値段を西側の商品以下に設定しなければならない。完全なるダンピングである。
それと同時に、東ドイツ軍の軍服、子供たちが14歳になったときに配布される社会主義の手引書など、
ただでもいらないと思われる様な、全く無用の物も出てきた。
この通貨同盟が始まってまもなく東西ドイツ国境を越えたことがあった。
あれほど取り調べの厳しかった検問所には誰もおらず、そのバラックの窓ガラスが何者かに破壊されていた。
そしてパスポートを検査されることもなく、税関もなく完全にフリーパスだった。
何を持ち込んでも良いし、何を持ち出しても良いことになった。
実質的には、この日が完全に開放された日であると思ってもいいだろう。
これからは闇で西ドイツマルクを両替する必要もない。
東ドイツ人が、今度は国境の町を訪ねるのではなく、安くていい物を求めて本格的な買い物や旅行に出だした。
最初に飛びついたのは車であった。
車といえば、1958年からほとんどモデルチェンジがなかった、プラスチックのボディで作られたトラバント
(ボール紙で作られていたと言われているが、ボール紙も使われていたと言うのが正解)、あるいはヴァルトブルク、
ソ連製のラーダ、チェコ製のシュコダなどがあったが、いずれも12年から14年待たねばならず、
東ドイツ人にとって西側の車を持つのは、ひとつのステータスであった。
ちなみに、東にはマツダのファミリア、フォルクスワーゲンのゴルフ、甲虫、シトロエンGSなどが
わずかながら走っていた。
私自身は東ドイツ滞在時代にシトロエン2CVに乗っていたが、非常に珍しがられた。
もちろん、東ドイツ人全てが新車を買ったわけではなく、当然中古車が中心であったが、その影響で中古車市場が
値上がりし、それに加えて、無知に付け込んでとんでもないボロ車を売った、悪徳な人間もいたようである。
旅行会社、バス会社が次々に設立され、あるいは西から進出し、西ドイツの各地、パリなどを訪ねるバス旅行が
売りに出され、しばらくそれが続いた。
そして当然ながら、インターショップと名づけられていたドルショップ、インタータンクというガソリンスタンドは消滅した。
雨後の筍のように、町のいたるところ、アウトバーンの駐車場には、ソーセージを焼いて売る旧東ドイツの人たちが
多く見られるようになった。