ドイツ個人旅行のガイド藤島が体験したベルリンの壁のお話です。


1989年11月9日の崩壊したベルリンの壁について、1980年から85年まで旧東ドイツに住み、
現在では個人旅行のお客様をご案内しているガイドが、ベルリンの壁の建築から崩壊、そしてドイツ統一までの
歴史をつづります。






ベルリンの壁の話 その11

1990年が明けた。

統一に際しては、内外にいくつかの問題を抱えていた。

対外的に大きな問題は、戦勝4ヶ国、そしてNATO関係の解決と、ポーランドとの国境問題の解決である。

1月30日にモドロウ東ドイツ首相はモスクワを訪れてゴルバチョフと会談し、東西ドイツ統一の承認を
得ることができた。

西ドイツはその直前に、ソ連に対して安価での食料供給と、50億マルク(約3500億円)の借款を約束しており、
ドイツは統一後も、良きパートナーとして無視できないと考えていたのである。

すでにゴルバチョフの目には、東ドイツが崩壊することは明らかであると映っていたが、NATOに加盟することには
反対した。

同じ日、エーリッヒ・ホーネッカー前書記長が殺人共犯の疑いのかどで逮捕されたが、病弱のために
取り調べに耐えられないという理由で、翌日の31日には釈放された。


ところが、ついこの2〜3ヶ月前まで賛辞を送っていたSEDの党員の誰一人として、行き場所のなくなった
ホーネッカ−夫妻に手を差し伸べる者はいなく、そのままではホームレス状態で野垂れ死にしてしまう、
という二人に手を差し伸べたのは、なんと、彼らがそれまでないがしろにしていた教会であった。

ある牧師夫婦が、自宅の天井裏の部屋が空いているので、そこに住まわせてあげたのである。

彼の子供たちは成績優秀にもかかわらず、牧師の子供であるという理由で、大学に入学を拒否されたのだった。

当然、この夫妻に抗議する市民もいたのだが、ホーネッカー夫妻を受け入れたのは、あくまでも神の意思に
よるものであり、人間愛に基づくものであると牧師は説明した。

ちなみに、それに対するホーネッカー夫妻からの公式な言葉はなかった。

そして牧師夫妻に対して、ホーネッカー夫妻がどの様なお礼の言葉を述べたかも、お礼そのものを
述べたかも聞かされていない。

この前後、SEDは党の資金をスエーデンの銀行を通じて国外に送金したり、東ドイツの政府高官の中には、
以前に国民から没収した骨董品などを私物化し、それを国外に持ち出して確保しようと試み、
市民たちがその持ち出しを阻止する光景も見られた。

驚いたのは、1970年代に西ドイツで殺人事件を起こした赤軍派の闘士が、なんとチェコ経由で東ドイツに
入り、その名前を変えて結婚までしていた、ということが明るみなったのもこのころだと記憶している。 

モドロウ首相はベルリンに戻り、2月1日、西ドイツ政府に、三段階に分けての統合と、軍事中立国としての
統一ドイツを提案したが、NATOでも非常に重要な地位を占める西ドイツ政府にとって、脱退することは
軍事的にはもとより、経済的にECに対する立場も危うくするものと考えたのだろう。

第一そのようなことをアメリカを始めとする、イギリス、フランスが同意するはずはない。あっさりと拒否された。

東ドイツ政府としては、統一は避けられないとしても、統一後のドイツで東ドイツ政府が提案した何かを
残したかったのかもしれない。

早速2月10日にコール首相はゲンシャー外相と共にモスクワに飛び、ゴルバチョフと会談し、
ドイツ統一の合意を得たのだが、統一ドイツがNATOに加盟することには反対した。

2月13日、ボンでコールとモドロウ両首相が2回目の会談を行い、早急の通貨同盟導入のための
委員会設置の合意を見た。

2月14日、カナダのオタワに、アメリカ、イギリス、フランス、ソ連の戦勝4カ国と、
東西ドイツの外務大臣(4+2)が集まり、ドイツ統一について会談が行われたのだが、
最大の関心は、NATOに加盟するか、あるいは中立国となるかということであった。

この会談は、予備会談のようなもので、決定事項は何もなかったのだが、重要なのは戦勝4ヶ国と
東西ドイツが同等の立場で話し合いができたことであった。

この4+2会談が始まってから最初は統一に対して懸念を持たなかったイギリスのサッチャー首相が、
急に反対を唱えだしたのはどういう理由によるものであっただろうか?イギリスに対する注目を集めようと
したのだろうか?

国民のアンケート調査の結果によれば、旧西ドイツはNATO軍を駐留して、旧東ドイツ地区は
NATO軍無配置にするのに賛成が49%、全土中立国23%、そして全土NATO加盟が27%であった。

コール政権は東ドイツに対して、これから先は東ドイツはもちろん、ソ連に対しても、かなりの
経済援助を強いられることになるがゆえに、統一のイニシアチブを取るのが当然と考えたのだろう。

東ドイツ国民は一日でも早く統一を望んでおり、結果としてはモドロウをそのペースに巻き込み、
東ドイツ政府は手も足も出ない窮地に追いやられた。

忘れてならないのは、統一がいつ、どのように行われたとしても、それなりの問題は起こるのが
当然であるし、出発点を元に戻すことは不可能であり、結局はその状況によって修正を加えるしか
方法はないのである。

重要なことは、統一後に発生するであろう、あらゆる問題をあらかじめ予想し、それに対する準備を
整えておくことと、統一前に発生した問題を全て解決しておくことである。

その大前提として、東ドイツ国民の意思がどのようなものであるかを知る必要があり、そのためには
各政党がその政策を国民に提示し、自由選択を行える様にしなければならない。

2月20日、新しい選挙に関する法律が成立し、東ドイツ国内で初めての、自由選挙による
人民議会(国会)の選挙戦が始まった。

それまでの東ドイツには、一応SEDの他に、キリスト教民主同盟、自由民主党、農民党などがあり、
SEDは過半数ではなかったのだが、表向きに過ぎず、全ての党はSEDの言いなりになっていた。

いや、失礼、言いなりになっていたのではなくて、常にそれに賛成していた。

そして選挙では、各党の候補者たちが列挙され、国民は彼らに対して信任投票をするという形になっていた。

一人に限らず、党が推薦した候補者に対して不信任であれば、それに]をすればいいのである。

不信任が50%を超えた場合は、その候補者は落選し、代りの人間が新たにそのポストに就くことになる。

従って、どの党が何%占めたとかという勝敗はつかない。
当然、選挙運動や、選挙演説その集会もない。
必勝の達磨、出陣の樽酒割りもない代りに、買収などの選挙違反もないのだが。

選挙の数週間前、町のあちこちのショーウィンドウに、候補者の顔写真がリストアップされ、
その年齢、職業などが紹介されたポスターが貼られるのである。

ちなみにエーリッヒ・ホーネッカーの職業は屋根葺き職人と表示されていた。

投票日には朝早くから子供たちのブラスバンドが町を練り歩き、市民に投票を呼びかける。

棄権は許されない。

東ドイツ市民が持っているのは投票権ではなく、投票義務である。

投票者は指定された投票所に行き、一応日本と同じような手続きをとり、そのリストアップされた紙を持って
小部屋に入って、不信任の場合は、その候補者にXをするのだが、誰もその選挙を真面目に取ってはおらず、
その投票用紙に何も手をつけず、二つに折りたたんで投票箱に入れるという行為だけであった。

市民は「折りたたみの日」と呼んでいた。

それじゃ、行くだけ損ではないか。という意見もあるだろう。

そうではない。行かなければ損である。棄権行為は危険行為なのである。

国家に対する義務を怠った行為により、ブラックリストに載ることになる。

第一、棄権したいと思っても、投票締め切りが迫ってきた場合には、その投票委員が訪ねて来て、
「なぜ投票に来ないのですか?」と催促し、それでも姿を見せない場合には、投票箱を持って現れたと
いうことである。

スターリンの時代は、投票用紙にXをするために小部屋に入ることさえ、党に対する敵対行為として
みなされて危険だったそうな。

そういうわけで、投票率は常に限りなく100%に近いものになり、信任率もそれに近いものになった。

もっとも、1989年の5月に行われた選挙では、かなりの不信任投票があり、この結果が改ざんされと言われ、、
それを糾弾する市民団体が出て、市民活動の発端にもなった。

当時の主だった党とそのスローガン。

ドイツ連合(キリスト教民主同盟、民主社会同盟、民主主義の誕生):
・政治的統一以外に代案はない。
・ドイツの基本法を、東ドイツ国民にも適用されることを実現しなければならない。
・即時の西ドイツマルクの導入と、預金の1対1の交換率実現に努力する。

自由民主連合(自由党、民主党、その他):
・自由経済社会における利益と損失を不動の基準とする
・預金の確保
・自由経済に基づいた価格と賃金
・早急なる互換性のある通貨の導入

社会民主党:
・我々社会民主党が勝ち取ってきた自由は、他党によって、特に恥知らずに虚実を並び立てる
キリスト教民主同盟と、民主社会同盟によって悪用されている。
・我々はこのような嘘つきと共に大風呂敷を広げることも、中傷を述べ立てるポスターを
剥ぎ取ることもしない。
・我々社会民主党員はザクセンの住民の健全なる理性に期待するものであり、皆様が自身で
その決定を下すのである。
・自由と民主主義は我々の保護下にある。

新フォーラム:
・我々が1989年9月に東ドイツの民主化を呼びかけ、平和革命に導いたのである。
・新旧の西ドイツのやり方を真似るのではなく、我々自身の手による、そして我々自身の観点からなる
東ドイツ社会を実現するのである。
・NATOとワルシャワ条約機構から開放された費用で、東西、および南北の経済摩擦と、
公害問題に取り組む。

こうして3月18日、東ドイツで最初の自由選挙が行われ、その投票率は(強制されない形で行われて)、
93.2%であった。

選挙の得票率は:
ドイツ連合:48%
社会民主党:21.9%
自由民主連合:5.3%
民主的社会主義党(旧SED):16.4%
新フォーラムは5%以下に留まった。

下馬評では、社会民主党が圧倒的多数を取るものと思われていたのだが、この結果は当然といえば当然といえる。
「西ドイツはコール率いるキリスト教民主同盟が政権を握っており、統一を前にして他の党が東ドイツ政権を
握ったならば、足並みが乱れて遅れることになるだろう。

それよりは、彼らと同じ党で二人三脚で行くのが無難である。それに通貨の交換率も具体的に1対1と
明言していることだし…。」

というわけで、キリスト教民主同盟を主とするドイツ連合が圧勝し、ローター・デ・ミジエーレが、
東ドイツの最初で最後に行われた自由選挙で選出されたと同時に、東ドイツ最後の首相となり、
これから急速に統一が進められることになる。








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