ドイツ個人旅行のガイド藤島が体験したベルリンの壁のお話です。


1989年11月9日の崩壊したベルリンの壁について、1980年から85年まで旧東ドイツに住み、
現在では個人旅行のお客様をご案内しているガイドが、ベルリンの壁の建築から崩壊、そしてドイツ統一までの
歴史をつづります。






ベルリンの壁の話 その10

さて、壁が開いたという事実は世界中から歓迎された。しかし統一は?

諸外国の一般市民へのアンケート調査では、ドイツ統一に対しては、いずれも肯定的な
結果が出ていた。

興味深かったのは日本人の反応で、「どちらともいえない」、という返答が最も多かった。

これはドイツという国が遠く離れており、東西ドイツ、そして東西ベルリンの関係も良く知らない人が
多かったせいであろう。
それとも、日本があまりにも平和ボケしていて、ヨーロッパの政情などに関心を持っていないせいだろうか?

それとは反対に、政治家たちやジャーナリストたちは、違った見解をしている。

イギリスの11月12日の「サンデータイムス」では、次のような論説が掲載された。

「ほとんどの政治家たちがまだ把握していないのだが、1990年代は、ソ連の解体とドイツ再統一によって、
アメリカはヨーロッパにおける存在価値を失い、ソ連という超大国の終焉を迎え、ヨーロッパにおける
経済超大国としてドイツ第四帝国の誕生となるであろう・・・。
ここで誰一人として問いかけようとしなかったひとつの問題が浮かび上がってくるのである。
これからのイギリスはどうなるのか?」

戦勝国であったイギリスやフランスは、ドイツ統一によって、ヨーロッパにおける経済的、
政治的な影響力がさらに強まり、自分たちの立場が弱められるのではないかということを懸念し、
特に第二次世界大戦で大損害を被ったポーランドは、ファシズムの復活、そして戦後ポーランドに
割譲されたシュレジア地方の返還を要求されるのではないかと恐れた。

それまで西ドイツ政府は、東ドイツにかかるオーデル・ナイセ国境を正式に認めてはいたのだが。

東ドイツ政府は新たに、ドレスデン県の書記長であり、改革派であったハンス・モドロウを首相に任命し、
国民に改革の意向を示したが、あくまでも東ドイツを独立国として維持したままで改革を進め、
統一という考えは持ち合わせなかったために、国民からは悲観的に受け止められた。

壁が開いてから後に行われたデモンストレーションでは、「我々はひとつの国民だ!」、という
シュプレヒコールが叫ばれるようになった。

同時にそれまでの社会主義統一党は「SED-PDS(社会主義統一党-民主的社会主義党)」と改名され、
後にPDSとさらにその名を変え、グレゴア・ギージが党首に選出された。

考えてみれば、壁を開けるということは、統一の大前提となるものであるが、諸外国は壁を開いたことと、
統一とは別問題であると考えたらしい。

ゴルバチョフが唱えたペレストロイカは、東ドイツ国内の変革を求めたのであって、ドイツが統一して欲しい
とは言ってはいないのである。

あくまでも、国民がそれを望むのであれば別として、「社会主義統一党」支配による東ドイツの存続を
前提としていたようである。

それまでチェコスロバキア、ポーランド、ハンガリーなどでは、条件はあるにしろ、西側に出ることは
できたのである。

東ドイツもそうなることは不可能ではないかもしれない。
つまり、東西ドイツという2つの独立国の連合体である。

その代わり、それまで西ドイツにとって東ドイツは外国ではなかったのだが、それをひとつの国として
認めねばならなくなる。
そうすれば、ドイツ人の最大の念願だった統一は完全に無視することになり、あまりにも国民との
希望とかけ離れたやり方になってしまう。

今の状況は、ベルリンの壁が建設される前の状況に似ており、放置すれば、東ドイツの住民がどんどん
西に出て誰もいなくなってしまう。
それを阻止するには、東ドイツの住民に対して西ドイツ政府が、「援助はしますから、東ドイツに
留まっていてください」と呼びかけ、それを納得させることである。

それができなくなったならば、逆に西ベルリンに東からの流入を拒否するために壁を作ることにもなりかねない。

コール首相としては、東からの流入を何とかして食い止めるには、早急に統一を実現させ、東ドイツ国民に対して、
「西ドイツに移住しなくても良い」という希望を持たせるような前提を作ることが重要であると考えたであろう。

加えて、自分の時代に統一を実現したい、という野心もあったに違いない。

西に出てきた人の全てが、その日のうちに仕事を見つけ、住宅に入ることができるなどということはありえないのである。

西に出てきた彼らに対しての失業手当の支給、住宅の世話、仕事の斡旋など、ありとあらゆる問題が発生し、
それに取り組まねばならないと同時に、東ドイツに対してもあらゆる援助をしなければならない、という
二重戦線を張るよりは、東ドイツに国民をその地に留めさせて置きながら援助するのが得策であると考えた、
と想像するのは難くない。
少なくとも、一応の仕事と住居だけは確保されているのだから。

すでに11月だけでも、逃げ出してきた人たちは約15万6千人で、1989年は合計で約34万4千人に上った。

1988年の約4万人に比べれば約9倍であり、東ベルリン人口の約20パーセントに相当する。

コール首相は11月28日に統一の前提として、東ドイツ政府に対して、緊急援助、さらなる協力関係の強化、
全ドイツにおける連邦共和制などを含む「10か条計画」を提示したが、東ドイツ政府はこれを「現実からかけ離れており、
混乱を呼び起こすものである」、と非難し、イギリスのサッチャー首相は、「戦勝4ヶ国を無視する越権行為である」と
述べ、コール首相は、「色々な誤解を呼び起こしたようである」と弁解した。

12月3日、政治局、およびSED中央評議会は解散、6日にはSED党首エゴン・クレンツも解任された。

12月7日、SED、それに追随していた既成の自由民主党、キリスト教民主同盟、農民党などの各政党に、
新たに結成された新フォーラム、民主主義の誕生、緑の党などの代表が集まり、それぞれの意見交換をするために、
初めての円卓会議が開かれ、今後の東ドイツの方針について話し合われた。

これでSEDの独裁的政治は終わりを告げたことになる。

この円卓会議では自由選挙、国家保安部の解散などが決定され、自由選挙の行われる直前の3月12日まで
合計16回開催された。

12月19日、ドレスデンで初めてコール首相とモドロウ首相の会見が行われ、爆撃で壊滅状態となった
聖母教会の廃墟前に集まった数万人のドレスデン市民の前でコール首相が統一に関して演説した。

この集会では西ドイツの国旗が翻り、市民たちの、「難しいことは良くわからない。ドイツの早急なる
統一を望んでいるのだ。その他のことは重要ではない」という気持ちが現れていた。

12月24日には、西ドイツ国民の訪問にはヴィザと強制両替が不必要になり、これで東西ドイツ国民の
往来は自由になった。

12月31日の大晦日から1月1日にかけては、ブランデンブルク門の前で民衆が花火を打ち上げ、
ゼクト(発泡酒)を抜いてお祝いをし、その幾人かは門の上によじ登り、4頭の馬に引かれるクワドリガ
と呼ばれる戦車を破損したのだった。







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