ドイツ個人旅行のガイド藤島が体験したベルリンの壁のお話です。
1989年11月9日の崩壊したベルリンの壁について、1980年から85年まで旧東ドイツに住み、
現在では個人旅行のお客様をご案内しているガイドが、ベルリンの壁の建築から崩壊、そしてドイツ統一までの
歴史をつづります。
ベルリンの壁の話 その7
11月9日18時56分、東ドイツ政治局員、政治報道局長ギュンター・シャボウスキー
が記者会見に臨み、イタリアのANSAのレポーターが、これからの新しい旅行に関する法律
について質問した。
それに応えて、シャボウスキーは今しがた手渡された紙を淡々と読み始めた。
「今知らされたのですが…。東ドイツ政府閣議は以下のように決定した。外国への旅行は、
その目的、および親戚関係を問わず許可申請ができるものとする。これに対する許可は、
短期間のうちに発行されるものとし、申請却下は特別な理由のない限り、この適用を免れる
ものとする。
また、無期限の出国に対しても、ヴィザは発行され、出国者は、全ての東ドイツから西ドイツ、
および西ベルリンの国境検問所を使用できるものとする」。
記者たちは官僚用語が良く理解できなかったのごとく、このセンセーションな決定に対して
一瞬言葉を失った。
続いて質問が出された。「いつからですか?」「私の受けた情報が正しく、そして私の解釈が正しいのであれば、
今すぐです」、とシャボウスキーは自分でも信じられない顔をして応えた。
1989年11月9日、ギュンター・シャボウスキーの記者会見
これは実は誤報であった。東ドイツ政府はすでにソ連大使館を通じて、この通達を翌日の10日に行う
つもりであったが、シャボウスキーは全くそれを知らされることなく会議を中座して記者会見に臨んだのだった。
この記者会見はわずか5〜6分で終了した。
東ドイツ政府はとうとうタオルを投げたのである。
記者会見が終了した5分後にはこの新しい旅行規定が東ドイツ国営通信ADNに伝えられた。
次のニュース番組では一番に全国に報道されるだろう。
この時、西ベルリン市長ヴァルター・モンパーは、ある出版社のパーティに招待されており、
西ドイツ首相ヘルムート・コールは、国賓としてポーランドのワルシャワにおり、晩餐会の最中に、
情報大臣のジョニー・クラインからそっと耳打ちされたのだった。
この様子を実況中継で、あるいはテレビニュースで知らされた人たちはどう思っただろうか?
私と同じだったと思う。「えっ?開けちゃうの?ほんとかいな?」
本来であれば、私の目の黒いうちは、壁が開くなどとは考えてもみなかったし、このような状況では
東ドイツ政府は何らかの措置をとるだろうとは思っていた。
それでも、まさか「今すぐ開けます」、などと発表するとは夢にも思っていなかったのである。
ベルリンの人たちは半信半疑ながらも、「とにかく壁まで行ってみよう」、と考えたに違いない。
すでに夜の8時半ごろから国境検問所に人が集まり始め、ショセー通りにある検問所を通って
最初の約60人が西側に出ていた。
9時半ごろにはベルンホルマー通りを最初のトラバントがクラクションを鳴らしながら通過した。
記者会見発表後のボルンホルマー通り検問所の様子
同じ時間、西ベルリンのRIAS放送のレポーターが送られたチェックポイントチャーリーでは、「出してくれ」
「いや、ヴィザがないと通しません」「後で戻ってくるんだから、通してくれ」という、群衆と国境警察官の
押し問答が続き、22時ごろには群衆は600人ほどに膨らみ、「私たちは戻ってくる!」、と連呼した。
すでにベルンホルマー通りの検問所は開放されていたが、ここではまだ押し問答が続けられ、
23時ごろになってから、パスポートに「無効」のスタンプを押されて通された。
そして24時ごろ、正式な通達があったのだろう、ついに検問所が開放された。
この時、チェックポイントチャーリーにいた群衆は3千人以上であった。
もはやヴィザがあるかどうか調べられるような人数ではない。
検問所の警官が呆然とする中を、人々は雪崩を切ったように検問所を通過して西ベルリンに出た。
「うれしくて気が狂いそうだ!」と驚喜、あるいは「28年間の念願がかなった!」、と号泣する
東ベルリン市民と、それを歓迎する西ベルリン市民から次々に上がる歓声で検問所付近は大混乱となった。
寝巻きにガウンをまとっただけの人から、すぐ近くで結婚パーティをしていたカップルは、
ウエディングドレスのまま検問所を通過した。
歓声が上げられる中、ゼクト(発泡酒)のコルクが鳴り、「今日ほどすばらしい日はない」、の大合唱が
起こった。
壁には西ベルリン市民がよじ登り、国境警察の放水車から水を浴びたが、誰も降りる者はいない。
そのうち誰かが、ハンマーで壁を壊しだした。
壁の近くにあるパブでは、東ベルリン市民にビールが振る舞われた。
どのような状況であったか、東西ベルリン市民の様子はどのようであったかは、言葉で表すのは全く
不可能だろう。
大混乱、狂喜、呆然、号泣など、それら全てが入り混じったものであった。
まさにWAHNSINN!!(気が狂いそう)な状態であった。
通称ク-ダムと呼ばれている西ベルリンの繁華街、クアフュルステンダム通りには、ショーウインドウを
覗き込む東ベルリンからの人たちで溢れ、とうとうここで夜を明かそうと道に寝転がる人たちも出てきた。
午前3時半ごろ、ブランデンブルク門は非武装した警官が西側から数メートル離れて半円状に整列して、
西ベルリンから入ってくる人たちをボイコットしたが、壁の上で狂喜するままにされた。
押し寄せた東ベルリン市民は、警官たちに丁寧に戻るように指示された。
そこへひとりの年老いた女性が涙ながらに、「私の生きているうちに、一度だけでもブランデンブルク門を
通ってみたいのよ!わかるでしょう!」と警官に訴え、彼にエスコートされながらゆっくりと門に向かって行った。
9日の夜8時半、ボンの連邦議会会場では総会審議が行われていたが、壁が即時開けられることを
を知らされた議員たちは思わず立ち上がり、西ドイツ国家の合唱が行われた。
ポーランド訪問中のヘルムート・コール首相は、あまりの異例な事件に、ポーランド政府の抗議にもかかわらず、
訪問スケジュールを全てキャンセルし、ベルリンに向かった。
こうして世界を驚かせた11月9日は終わりを告げた。
偶然にも、この11月9日という日は、ドイツにとっては運命の日とも言える日である。
第一次世界大戦でドイツが降伏し、皇帝がオランダに亡命した後に、共和国宣告が
行われたのが1918年11月9日であり、ヒトラーがミュンヘンで暴動を起こして鎮圧されたのが、
1923年11月9日。
そして、ナチスドイツがユダヤ教会に放火し、ユダヤ人の商店を破壊し、多くのユダヤ人や、
反政府活動者を逮捕して強制収容所に送り込んだ、帝国水晶の夜と呼ばれる日が、
1938年11月9日のことであった。