ドイツ個人旅行のガイド藤島が体験したベルリンの壁のお話です。


1989年11月9日の崩壊したベルリンの壁について、1980年から85年まで旧東ドイツに住み、
現在では個人旅行のお客様をご案内しているガイドが、ベルリンの壁の建築から崩壊、そしてドイツ統一までの
歴史をつづります。






ベルリンの壁の話 その8


11月10日の朝が開けて、大騒ぎも少しは落ち着いたように見えたが、人の流れは一向に
その衰えを見せない。

11月10日の検問所の様子

その中には28年間閉じ込められていたと感じていた東ドイツ人ばかりではなく、この国で働いている
ブルガリア人、ルーマニア人、ベトナム人、アフリカ人なども混じっていた。

ひとりのベトナム人が、テレビ局のマイクに向かって、「社会主義のくそったれ!」と捨て台詞を吐いて西側に
入ってきた。

70年代後半あたりから、友好国のベトナムから、研修生、留学生、そして3年間の労働契約を結んで
東ドイツに滞在していた人たちがおり、この人たちは3年後に帰国する際には、冷蔵庫、自転車、テレビの
3種の神器を東ドイツで買って行ったそうな。

それに加えて、アフリカのモザンビークとかエチオピアなどからの留学生、実習生などが結構いた。

この人たちの中にも、どさくさに紛れて西ベルリンに入って亡命を希望した人もいたようである。

さらには、シュタージ(国家保安部)の手先と目されていた人間は、忽然とその姿を消した者もいた。

東ドイツが崩壊し、自分がシュタージの手先ということが明るみに出たら、民衆に何をされるか
わからないという恐怖から来た行為だっただろう。

この西ベルリン、西ドイツに出てきた東ドイツ人が一番最初にしたことは、銀行に行くことであった。

西ドイツにはこの当時、東ドイツから訪問した人たちに対しては一年に一回に限り、100マルク(約七千円)の
お小遣いをくれたのである。

人々は何時間も窓口で待ってこの100マルクを手に入れ、その足でスーパーマーケットに殺到した。

さぞかし物の豊富さにびっくりしたことだろう。

もちろん、西側のテレビ放送を見ることができた人たちは、商品棚に豊富な商品が陳列されているということは
知ってはいるのだが、それが実際に目の前にある、この手で触れる。すごいショックだったはずである。

1987年に、当時の当時のカール・マルクス・シュタット(現在のケムニッツ)に住んでいた友人が、
叔父さんの銀婚式のお祝いで西のアウグスブルクに出て来た時に再会したのだが、「電車を下りた
とたん、すぐに戻りたくなった」と、その時の第一印象を述べてくれたことがある。

あれもある、これもある。有名ブランド品だったら何でも飛びつく、どこかの国の若い女性が、
ルイヴィトン、グッチ、フェラガモ、カルガモ、プラダ、シャネル、イヴサンローラン、
ミッソーニ、シオヤーキなどの、ありとあらゆるブランド品がごちゃ混ぜになった並んでいる
ようなものだろう。

完全にパニック状態に陥ったはずである。

その中でも一番売れたのがバナナであった。

このバナナは、東ドイツには全くといってよいほどど売られてはおらず、私の4年半の滞在中でも、
一回しかお目にかかったことがなかった。

それも黄色くなく、まだ緑のバナナで、食用に耐えるまでには二週間ほど放置しなければ
ならないものであった。

それに加えて、きれいな黄色の熟したオレンジである。

東ドイツではキューバ産のオレンジが売りに出ていたが、色の不ぞろいの物で、非常に皮が硬く、
西側ではとても売り物にならず、おそらくはジュース用の原料にしかならないものと思われる物であった。

キューバでも、品質の良い物は当然、外貨獲得のために資本主義国に輸出されたことだろう。

東ドイツでは、慢性的にありとあらゆる新鮮な野菜と果物が不足しており、夏でもトマトやきゅうりが
売りに出たら並んで買うという状況であった。

東に滞在中、西ベルリンに出た時に果物屋の前を通りかかったことがあったが、果物や特有の
甘酸っぱい匂いが漂って来た。
「そうだったよな。果物屋って、こういう匂いがしたんだっけ」。

思わず涙が出て来て、その日はオレンジとバナナを買って行ったのだが、東に出たとたん、
町の人たちの羨ましそうな目が注がれた。中年のオバさんが、「それどこで見つけました?」
「西ベルリンで」「ああ、そうなの」。

ドルショップでも、このような新鮮な果物を買うことは不可能だったのである。

もっとも、政府高官が住んでいる東ベルリンのヴァントリッツ地区ではかなリ事情は違ったと聞いている。

そのバナナ、オレンジ、みかん、そして食べ方さえも知らないキウイなどの果物、東ドイツ製の
高くて砂を噛むようなものではない、安くて舌触りの柔らかい、おいしいチョコレート、そして香りの
いいコーヒーが飛ぶように売れ、高品質のカセットテープ、パンスト(東では14マルク、公定レートで
約2千円もし、伝線したら修理に出していた)、安い化粧品などに飛びつき、マクドナルドをほおばり、
買わないまでも、東では絶対にお目にかかれないポルノショップを冷やかしに行ったのだった。

そして西ドイツに出る国境検問所は、東ドイツの国民車トラバントが数珠繋ぎになり、バイエルン州の
国境の町ホーフ付近の検問所の前は60キロの渋滞となった。人口約5万人のこの町に4万人が訪れたのである。

このような状況はホーフに限らず、国境付近のヘルムシュテット、リューベックなどでも同様であった。

この時、このような国境の町では、東からの訪問者の車に対しては駐車場、町の市電、市バスなどの
公共交通機関は無料にした。

また、首相のヘルムート・コールは、ドイツの開店法では土曜日は14時まで開店、そして日曜日は休業と
いうことになっていたのだが、「国境付近のお店は週末も営業してもよろしい」、という粋な計らいをした。

そしてダニエル・バレンボイム指揮のベルリンフィルハーモニー管弦楽団は、東の人たちを歓迎するために、
2回にわたって無料チャリティコンサートを開いた。

夜になり、ヴァイツゼッカー大統領、ポーランド訪問を急遽中断して飛んで来たコール首相、元ベルリン市長で、
壁ができた当時に首相だったヴィリー・ブラント、プラハ大使館に立てこもった亡命希望者のために、
あちこち駆け回ったハンス-ディートリッヒ・ゲンシャー外務大臣、ヴァルター・モンパーベルリン市長などが、
西ベルリン市庁舎前での集会に参列し、ベルリン市民の前で演説した。

ヴィリー・ブラント元首相:「壁の崩壊を体験できたことを、神に感謝するものである」

ヴァルタ・ーモンパーベルリン市長:「我々ドイツ人は、この瞬間、世界でもっとも幸福
な国民である」

ヘルムート・コール首相:「自由という言葉の意味をヨーロッパ中の人たちが認識したのである。
我々はこれからの道を、熱き心と冷静なる分別で進まねばならない」。

気の毒だったのは、彼が演壇に立った時、多くの聴衆から、彼を批判する口笛が鳴らされたことである。

ハンス-ディートリッヒ・ゲンシャー外務大臣:「全ヨーロッパで自由の時が来たならば、ドイツ人がそれに貢献し、
自分たちもそれに参加した、と述べることができるのである」

彼は後に、バットマンのごとく、人類のために世界中を縦横無尽に飛び回ったことから、「ゲンシュマン」と
あだ名が付き、そのTシャツまで売られたのだった。

11月11日、世界的に有名なチェロ奏者ムスティスラフ・ロストロポーヴィッチが、パリから
ジェット機をチャーターしてベルリンまで飛んで来て、チェックポイントチャーリーでバッハを弾いた。

11月12日にかかる夜には、東ドイツ国営企業「プレンツラウアーベルク建築補修」が動員され、
東西ベルリン市民の見守る中、ポツダム広場の壁が建設機械で除去された。

戦前はベルリンの中心地であり、壁があった時代は完全に無人地帯であったが、現在この広場にはソニーセンターが
建っている。

つい数日前には考えられなかった、東西の警察官が、その帽子を交換したり、西ベルリン市民が、壁の除去作業に
従事している兵士たちにコーヒーを振る舞ったり、花を捧げたりする光景も見られた。

早速この壁の破片を削って売りに出す人たちも出てきた。

私自身も1990年にベルリンを訪れた時、買うのは癪だとばかり、ハンマーとたがねを用意して試したが、
なかなか硬い物であった。

壁の他に有刺鉄線も30センチほど頂戴してきた。

東ベルリンの知り合いが笑いながら怒鳴った。「あれは東ドイツ政府の所有物だぞ、それを何の許可もなしに
売りに出すなんてひどいじゃないか!」








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