ドイツ個人旅行のガイド藤島が体験したベルリンの壁のお話です。
1989年11月9日の崩壊したベルリンの壁について、1980年から85年まで旧東ドイツに住み、
現在では個人旅行のお客様をご案内しているガイドが、ベルリンの壁の建築から崩壊、そしてドイツ統一までの
歴史をつづります。
ベルリンの壁の話 その6
ホーネッカー率いる社会主義統一党は窮地に陥った。
彼は10月10日、政治局員と全国15全ての県知事を緊急会議に招集した。
会議は2日間に及び、国家保安部長官のエーリッヒ・ミルケが、「ホーネッカー同志の
退陣がなければ、暴動が起こります。ソ連は助けてくれません」と発言したが、
ホーネッカーは、「もしも小指を差し出したならば、身体全体が引き込まれることになる」、
と国内の改革、自由化を頑なに拒否し、逆に多くの政治局員と県知事の辞任を
要求したばかりか、即時の党中央委員会を招集したのだった。
ホーネッカーは退陣しなければならない。
エゴン・クレンツは政治局員たちに根回しをしてホーネッカーの退陣を迫り、党中央委員会は、
「健康的な理由による」、というホーネッカーの辞意を承認、後継者として指名された
エゴン・クレンツが書記長に選出された。
このニュースは直ちに全国に報道され、クレンツはテレビのレポーターに対して、「働いて、働いて
いくつもりです」とコメントし、その日の夜20時に、東ドイツでは初めてテレビに向かって、
国民にその方針を伝え、「どうぞこの国に留まってください」とアピールしたが、国民はもはや
この社会主義統一党の言い分は信用しなかった。
「今までと同じように、口先ばかりで何も変わらない」と考えたに違いない。
政治局員の中には以前の閣僚がかなり残っていたせいもあるだろう。
興味深かったのは、6日後の500人の代議員からなる人民議会(いわゆる国会)である。
彼を国家評議会、および国民防衛評議会の議長に対する信任投票で、26人が反対票を投じたのである。
これは東ドイツでは青天の霹靂であった。
それまでは、この信任投票は常に全会一致を見ていたからである。
反対の挙手があった時、議長はあわててその反対票を数え始めた。
「ちょっとお待ちください。今数えますから・・・26。26でいいですね?」とやり、この様子をテレビで
見ていた国民の失笑を買った。
数日後には、全国15の県知事が解任され、色々な町の党幹部が自殺をし、社会主義統一党からの離脱者が激増し、
数ヶ月で230万人から約60万人に低下した。
デモンストレーションは毎日のように続けられ、政府への改革要求のシンボルとして、夜には後にろうそく革命と
呼ばれるように、町中にろうそくが灯された。
テレビ放送も変わり、それまでエドワード・フォン・シュニッツラーという論説員が社会主義の長点を誇示し、
資本主義社会をぼろくそに解説しながら放送していた、「黒いチャンネル」という最も嫌われていた
政治コメント番組は消え去り、新たに「エルフ99」という若者向けの番組が組み入れられた。
その後、チェコスロバキアが西ドイツへの国境を開けてしまった。
これはヴィザの要らないチェコスロバキアを通って、西ドイツにいつでも逃げられる、ということを意味する。
その気になれば歩いて行くこともできるのである。
東ドイツ政府は直ちにチェコへの国境をも封鎖してしまったが、これに国民が強烈に反発したために数日後には撤回し、
11月3日にはチェコを通過して西ドイツに出ることを承認せざるを得なくなってしまった。
こううなれば、国外を脱出する国民と、国内に留まり、大幅な改革を求める国民とに別れてしまうだけである。
さもなくば、東ドイツは空になってしまうだろう。
暗闇の部屋の灯りを消して最後に出てくるのは誰なのか?
デモンストレーションでは、「我々はこの国に留まる!」、というシュプレヒコ−ルも聞こえるようになった。
11月4日、東ベルリンのアレキサンダー広場で100万人の大集会が開かれ、著名な作家、役者、
運動団体の代表、そしてギュンター・シャボウスキーという政府の政治報道局長も演説に参加した。
政府にはもはや言論統制をする力も、シュタージに弾圧を命令する力もない。
それぞれ、政府の退陣、野党の承認、自由選挙、社会主義教育の強制の撤廃などを訴え、
プラカードにはその他に、「エゴン。君の当選は無効だよ。選出したのは私たちではないのだから」、
「エゴンなき民主主義」、「エゴンて誰でしたっけ?」、あるいは「真実は歩き出し、SED(社会主義統一党)は
その後からびっこを引いて来る」と皮肉って書かれたものが多数掲げられたのだった。
11月6日、エゴン・クレンツは条件付(記憶に間違いなければ、年間30日間以内、西ドイツ通貨の
交換不可能)で西への出国を許可する旅行法案を公表したが、翌日には外貨に関する条件が不十分である
という理由で人民議会はこれを拒否した。
11月7日、ヴィリー・シュトーフを首相とする内閣は総辞職。
11月8日、21人の政治局員が辞職し、改めて政治局員が11人のみ選出される。
11月9日午後、エゴン・クレンツ、先日提示した旅行法案を撤回する。政治報道局長の
ギュンター・シャボウスキー、記者会見のために政治局員会議を中座する。
すでに国外に脱出した東ドイツ国民の数は12万人に達していた。
この時、世紀の瞬間が迫っていることを誰ひとり予想できないでいた・・・。