ドイツ個人旅行のガイド藤島が体験したベルリンの壁のお話です。


1989年11月9日の崩壊したベルリンの壁について、1980年から85年まで旧東ドイツに住み、
現在では個人旅行のお客様をご案内しているガイドが、ベルリンの壁の建築から崩壊、そしてドイツ統一までの
歴史をつづります。






ベルリンの壁の話 その5


私が正式に東ドイツに滞在し、劇場で音楽家の端くれとして働き始めたのは1980年の9月からであったが、
劇場の照明係が、「もしも西ドイツに移住したら…。」という話をしていた。

これが東ドイツ国民が西ドイツに移住する可能性がある、と聞かされた最初である。

まず女性は60歳、男性は65歳で年金生活に入り、この人たちは西側に移住することができた。

家財道具その他を持ち出して西側に移住し、年金生活を送れるのである。

家族親戚が西ドイツに住んでいればなおさらである。

東ドイツにとっても、もはや生産能力もない人間を追い出せるし、年金を払う必要もないので好都合である。

前述したように、西ドイツ政府にとって東ドイツは外国ではないので、移住してきた人たち同じ西ドイツと
して扱われるのである。

それと同時に、年金生活者ではなくとも、諸般の理由で西ドイツに移住したいという申請を出すことが許されていた。

しかし、どのような理由でもかまわないということではない。

最もリスクの小さい理由としては、西に住む両親(あるいは片親)が高齢で、自分以外の身内は誰もいないので、
世話をしなければならない、というようなものである。

政治に納得できない、などとしたら大変である。

完全に政治犯として扱われる。

学校の先生が移住申請をした場合には、社会主義を否定すると同様であるから当然であるとばかり、
即刻解雇された。

ある程度重要な地位にいる人は、たとえば、工場長だった人はその地位を失い、最低の仕事を与えられたり、
職場を追われることになった。

そのような人たちは、ゴミ回収の仕事とか建設工事の手伝い、教会で庭師とか、雑役などの職場を探すことが
多かった様である。

そして申請をした人たちは、いつ許可が出るかも分からずにずっと待っているのである。

特に医者などは、そのために長い期間、多額の教育費を国家が払ったという理由で待機期間が長くなり、
逆に、日ごろから素行の良くない人間は、厄介払いということで、比較的すぐに出してもらえたようである。

私の知人もそうであった。

劇場の資材調達課長だった女性は、3年ほど待っていたが、劇場にいる限り出国は不可能と判断し、その職場を
去り、隣町の写真館に勤務した後で比較的早く出国できた。

反対に、どうも売春をしているらしいと噂されていた女の子は、申請してわずか3ヶ月後に西に出ることができた。

出国する時も一筋縄ではいかない。

2週間の準備期間が与えられることもあるし、24時間以内、極端な時には本日の24時までに出国しろ、
という通知が来ることもある。

私の回りには、その出国申請をした人間が比較的多かったように思える。

80年に入り、お隣のポーランドではワレサ書記長率いる「連帯」が運動を起こしたが、
それも自国の将軍につぶされてしまった。

ソ連の指令に、ずっとのらりくらりやってごまかしたポーランドだからできたことだろう。

あまりにもソ連に忠実だった東ドイツ政府に対して、秩序を好むドイツ人ではできなかったことと思われた。

1985年初頭、10人ほどの東ドイツ人が東ベルリンのアメリカ大使館に駆け込み、
亡命を希望した。東ドイツ政府は即時、これ以上東ドイツ国民が駆け込めないように包囲し、
その他の西側諸国の大使館前に警官を配置した。

小さな在東ドイツ日本大使館の前にも警官が立っていた。

希望が湧いたのは85年3月、新たにソ連書記長に就任したゴルバチョフが登場してからである。

彼は「グラズノスト(開放)」と「ペレストロイカ(変革)」をスローガンに、ソ連の政治方針を
大幅に変更し、ハンガリー、チェコスロバキアはこれに倣い始めたのだが、東ドイツはそれを完全に
無視した。

それに対する東ドイツ政治局の弁は、「隣の家が壁紙を張り替えたとしても、なぜこちらもしなければならないのか?」
というものであった。

これで東ドイツ国民の期待は裏切られた。ソ連で発行されている「スプートニク」という雑誌さえも、
この国では販売禁止されたのである。

1987年6月、アメリカ大統領レーガンが西ベルリンを訪問し、ブランデンブルク門の前での演説で、
「ミスターゴルバチョフ、この門を開放したまえ。この壁を壊したまえ!」と要求した。

ブランデンブルク門の前で行ったレーガン大統領の演説

そしてこの年の9月にはホーネッカーが西ドイツを公式訪問し、生まれ故郷のザールランドにも立ち寄った。

この時のドイツ大統領列席の晩餐会のスピーチでも、「社会主義と資本主義は、水と油のような物であり、決して一緒に
なることはない」と公言した。
「壁は今後も50年、100年維持されることであろう」。

国民の不満はさらに強まることになる。

1989年2月には壁を乗り越えようとしたクルス・ゲフロイという若者が射殺された。

そして6月4日に起きた北京の天安門事件で人民解放軍が群集に向かって無差別に発砲し、
流血騒ぎとなって鎮圧した措置を、中国建国40周年記念に出席したホーネッカーの寵児エゴン・クレンツは、
「秩序と安全の維持をもたらす措置」と評価した。

このままでは東ドイツも同じ運命をたどることになるかもしれないと想像できるし、何らかの形で
西ドイツに出るしかない、と考えるのは当然であろう。

「そうだ。大使館に駆け込もう。1983年ごろ、ヴィーリー・シュトーフ首相の姪の家族が、西ドイツに
移住させて欲しいとプラハの西ドイツ大使館に飛び込んだことがあった。

あの時は、東ドイツの新聞「ノイエスドイチュラント」には、プラハの西ドイツ大使館に、
”ゲストとして”滞在している、シュトーフ同志の姪の夫は、前科者で…とかナントカ書かれてあったっけ。
それに、85年の初頭にも同じようなことがあった。これしかない」。

大量脱出の波はハンガリーから始まった。

7月、西に移住を希望していた人たちは、東ベルリンのの西ドイツ常駐代表部、ブダペストやプラハ、
ワルシャワの西ドイツ大使館に駆け込んで移住を要求して立てこもり、8月にはその人たちで溢れ、
とうとう閉鎖せざるを得なくなった。(東ベルリン8月8日、ブダペスト8月14日、プラハ8月23日)。

8月19日、その昔ハプスブルグ家がオーストリアとハンガリーの国境のショプロンという場所で
ピクニックをした、という記念日に国境が開けられるのに紛れ、約600人がオーストリアに逃げ出した。

そして9月11日の夜、ハンガリー政府はオーストリアへの国境開放を宣言し、その結果、ブダペストの
ドイツ大使館にたてこもっていた人たちが、オーストリアに抜けてドイツに脱出できるようになり、
後に数万人がこの機会を利用して国外に出た。

その間、プラハやワルシャワのドイツ大使館に、柵を越えて続々と移住希望者が入り込み、
特にチェコスロバキアはヴィザの要らない唯一の国であり、プラハではその数約5500人に
膨れ上がった。

大使館周辺の道路には、乗り捨てられた彼らの車が溢れ、大使館の庭にはテントが所狭しと張られ、
敷地、建物の中は足の踏み場もないほどごった返した。

プラハの西ドイツ大使館に逃げ込む東ドイツ市民たち

西ドイツ政府は救援物資を送り、その間にも外務大臣ディートリッヒ・ゲンシャーがモスクワとワシントンと
交渉し、事態の緩和に努めた。

そして9月30日の夜、プラハ大使館のバルコニーにその姿を現して彼らに話しかけた。
「私たちはここにやって来ました。本日あなた方の出国の…」聞き耳をたてていた群衆から、
「ウワーッ!!!」と歓声が上がる。

こうしてプラハやワルシャワの大使館に立てこもった人たちは、特別列車でプラハから西ドイツに出ることが
許されたのだが、そのまま西ドイツに出るのではなく、一応東ドイツを経由して出ることになった。

東ドイツ建国40周年記念で汚点を残したくない政府の言い分は、「あくまでもヒューマニティに沿った措置」
というものであったが、ホーネッカーは、「この国を出て行くような裏切り者たちのことを考える必要はない」
とコメントした。

プラハからの特別列車は、ドレスデンの中央駅を経由することになり、駅は厳重に包囲された。

その後列車は西ドイツバイエルン州のホーフに到着し、乗客たちとそれを迎える人たちは喜びの歓声を上げた。

そして親戚、知人、そして友人のもとに引き取られるのだが、行く場所のない人たちは、ギーセンや
フリードランドにある、東ドイツ、および東欧、ソ連からの移住者の受け入れ施設に収容された。

しかし、ここはこのような大勢の人たちを一度に収容できるほど大きくはないはずである。

一体どのようにして全ての人たちを収容することができたのだろう?

このプラハ、およびワルシャワ大使館の措置は、あくまでも今回限りということであったが、またしても
群衆が押し寄せて立てこもった。

チェコの警察官が、大使館の柵にしがみついている人を引き離そうとし、中にいる人たちはそうはさせじと、
小競り合いを演じ、大使館員が警察官に、離してやってくれと言うまで、20分間の引っ張り合いになっている
場面を西ドイツの人たちはニュースでそれを目の当たりにした。

東ドイツ政府は10月3日に2度目の国外退去を許可し、4日にはドレスデンの駅でこの列車に
飛び乗ろうとした2千人の群衆と警察との衝突が起こった。

また国内では、ライプチッヒのニコライ教会で、月曜日の礼拝が終わった後にデモ行進をするのが
恒例であった教会では、政治や環境問題などに関してある程度自由に発言を許されていることもあり、
この礼拝に参加する人数が次第に増加していく一方で、「新フォーラム」「東独社会民主党」などの
政治グループも組織されてきた。

10月6日、東ドイツ40周年記念に列席するゴルバチョフを迎えるために、ホーネッカーははうきうきしながら、
東ベルリンのシューネフェルト空港で彼の到着を待っていた。そこに居合わせた西ドイツテレビのレポーターの、
「ホーネッカーさん。ドレスデンやライプチッヒで起きている問題の…。」という問いかけに、「私たちは何も問題なんか
抱えていませんよ。ドレスデンでも、ライプチッヒでも、皆さん働きに出ていますよ」と応えたのだった。

「だめだこりゃ」典型的な東ドイツの政治家である。

私が、かの地での4年半にわたる生活で一番感じたことは、「色々な社会問題があったとしても、それが社会問題と捉えない、
ということが一番の社会問題なのだ」、ということであったが、まさにそれである。

後に、「グッドバイ・レーニン」という映画が上映されたが、テレビでは、「グッドバイ・エーリッヒ」というタイトルの
ドキュメントが放送された。

彼の個人的な友人が、その中のインタビューで、「彼にいくら言っても、絶対にそれを認めようとしませんでした。
もうこれ以上何を言っても無駄だと感じたのです」と語っていた。

ホーネッカーは、「牛でもろばでも(馬鹿でもチョンでも)社会主義の動きは止められないのである」、と
説明していた。

その動きは下降線をたどるばかりだ、ということを認めたくなかったのである。

10月6日の夕方、東ベルリンで大がかりなデモが行われ、「ゴルビー、助けてくれ!」
「ゴルビー、その調子だ!」と書かれたプラカードを持って、「ゴルビー!」のシュプレヒコールが
連呼され、その他の多くの町でもデモンストレーションが行われたが、群衆に混じっていた
シュタージがプラカードを引き千切ったり、西側の撮影隊のカメラをふさいだりして妨害し、
群衆から「シュタージは出て行け!」と罵声を浴びた。

10月7日に文化国宮殿で開催された東ドイツ建国40周年記念式典でゴルバチョフは、
その演説の中で、「遅く来た者は、その人生で罰せられる」という有名な言葉を発した。

この式典中にも、デモの参加者たちは、共和国宮殿の側に集まり、「ゴルビー!」のシュプレヒコールを
繰り返した。

ゴルバチョフはその後、まるで彼らの周辺では何事も起きていないように軍隊、松明を持つ
自由ドイツ青年同盟などのパレードに参加して、ホーネッカー、および東ドイツ閣僚たちに付き合ったのだが、
翌日ウンター・デン・リンデン通りにある反ナチの犠牲者たちの霊廟を訪れ、デモに参加している若者たちに
声をかけたのだった。
「行動したまえ!」

2日後の10月9日月曜日、ライプチッヒでは恒例の礼拝の後のデモンストレーションが行われたが、
これには7〜8万人が参加し、「WIR SIND DAS VOLK(われわれが国民だ)!」
「KEIN GEWALT(無暴力)!」「AUF DIE STRASSE(外に出よう)!」と繰り返し叫びながら、
町中をデモンストレーションした。

この時、政府はこのデモンストレーションを力ずくで阻止しようと企んでいた。

ライプチッヒのシュタージ本部では、すでに約8千人の軍隊を用意し、病院、集会場には輸血用の血液、
死体用の袋、手術の用意などを整わせ、ホーネッカーからは、「必要な場合には銃器を使用すべし」、
という命令を受けていた。

デモンストレーションは、「無暴力」のシュプレッヒコールによって破壊行為は全く見られず、
平穏に行われていたが、次第にエスカレートし、あわや軍が発動という寸前、ライプチッヒ
ゲヴァントハウス管弦楽団の指揮者であるクルト・マズァなどの3人が町のスピーカーを通してデモ隊に呼びかけた。

「デモ隊の皆さん。絶対に軽率な行動は取らないでください。皆さんの要求は党の上層部に伝えることをお約束します。
話し合いましょう」。

ライプチッヒでの10月9日のデモンストレーションの様子

デモ隊は全く暴力行為に出ることもなく、軍の担当司令官も弾圧をあきらめた。
と言うより、党の上層部は怖かったのだろう。誰一人として決定を下す勇気がなかったのだ。

流血騒ぎは避けられた。その直後にはゲヴァントハウスコンサートホールで、この3人を中心として
話し合いが行われた。

特にクルト・マズアは、日本人の奥さんを持ち、日本にも何度か演奏旅行に来たこともある世界的に有名な
指揮者であり、党の上層部に十分顔が知られている人物であった。

このライプッヒの月曜日のデモンストレーションに参加する人を阻止するべく、町の住民以外はこの町に
入ることを禁じられ、電車で到着した人はライプチッヒ駅から戻るように、警官に命令されたのだが、
この波は納まらず、16日には20万人、23日には30万人、そして10月30日には57万人に膨れ上がった。

このニコライ教会が、平和革命の発端となったのである。

そしてデモ隊による暴力、破壊行為は全く見られなかった。






ドイツ個人旅行、リムジンサービス、
ドイツ語現地通訳のお問い合わせは:
ドイツのリムジンサービス藤島
MIETWAGENUNTERNEHMEN
JUNICHI FUJISHIMA
VOGTGASSE 4
69181 LEIMEN、GERMANY
電話:06224−72630
携帯:0172−6200878
ファックス:06224−74591
e-mail: fujishimatour@gmail.com
HP:http://www.fujishimatour.com