ドイツ個人旅行|ガイド|ベルリンの壁|崩壊 その4


ドイツ個人旅行のガイド藤島が体験したベルリンの壁のお話です。


1989年11月9日の崩壊したベルリンの壁について、1980年から85年まで旧東ドイツに住み、
現在では個人旅行のお客様をご案内しているガイドが、ベルリンの壁の建築から崩壊、そしてドイツ統一までの
歴史をつづります。






ベルリンの壁の話 その4<

壁が建設されてから、家族同士が生き別れになり、東ベルリンに住み、西ベルリンで働いていた人たちは
東ドイツで仕事を探すしかなかった。

就労可能者たちの流出が停止し、東ドイツ経済は回復し始めた。

当時の西ベルリン市長だったヴィリー・ブラントは、この現実に鑑み、できるだけ東側との交渉を行い、
1963年から64年の年末年始に、西ベルリン市民が東ベルリンの親戚、友人を訪問することができる
通行証を得ることに成功し、この機会を通じて述べ72万人の人たちを東側の人たちに訪問させることに成功した。

私自身も、この模様を映したフィルムをニュース映画で見たような記憶がある。

そして64年11月2日からは、東ドイツの男性は65歳、女性は60歳以上の年金受給者が西ドイツを
訪問できるようになった。

約200万人の人口を抱える西ベルリンは、完全に東ドイツ国内に浮かぶ孤島となり、西ドイツに出るには、
鉄道、飛行機、あるいはアウトバーンを通って行くしかない。

空路では、ドイツのルフトハンザは入れず、アメリカのパンアメリカン航空、イギリスのブリティッシュ
エアウエイ、そしてフランスのエアーフランスだけが離着陸できたのだが、援助金を受けているおかげで、
かなり割安で飛ぶことができた。

鉄道を利用する場合には、西ドイツから西ベルリン直通の列車は、東ドイツ国内は検札があるだけで
ノンストップで走り、西ベルリンの手前で乗務員の交代が行われた後に西ベルリンのツォー駅に入った。



アウトバーンを利用する場合は、東ドイツの検問所でトランジットヴィザを所得し、そのまま
最短距離で走行し、24時間以内に西ベルリンに入らねばならなかった。

その間、頻繁にスピード違反の取締りがあり、もちろん罰金は西ドイツマルクで支払わされた。

このトランジットを利用して東から逃げようとする人をトランクルームに入れたらうまく行くのではないか、
と思ってはいけない。

どこで誰が監視しているか全くわからないのである。

逃げる可能性はほとんど皆無であった。

車で行く唯一の利点は、インタータンクと名づけられたガソリンスタンドでガソリンが比較的安く買えたことと、
インターショップ(ドルショップ)で、タバコが約半分の値段で買えたことであるが、これも一定量を超えて
購入して西ベルリンの税関で発覚すると罰金を払わされた。

このように、西側に出る場合には嫌な思いをしたり、市民は閉じ込められていると感じていたために、
ベルリンにはあまり住みたくないと感じている人たちもおり、そのために税金を安くするなどの優遇措置が
取られていた。

その後、69年に西ドイツ首相に就任したヴィリー・ブラントは、それまでの東ドイツに対する政策を柔軟な
方向に変え、70年には東ドイツのエアフルトで東ドイツの首相、ヴィィリー・シュトーフと会談するまでに至った。

東ドイツ市民はブラントに希望を託し、彼が宿泊した駅前のホテル、エアフルター・ホーフの前で、
バルコニーに姿を現したブラントに向かって「ヴィ−リー・ブラント!」と大声で連呼した。

面白くなかったのは東ドイツ政府である。

翌日には大勢のさくらを動員、ヴィーリー・シュトーフに向かって「ヴィーリー・シュトーフ!」と連呼させたのだった。

71年には東西ベルリン間の電話が19年ぶりに通じるようになり、72年には東ドイツ国内のトランジットに関する
協定などが結ばれ、73年には東西ドイツが国連に加盟し、日本も正式に東ドイツと国交を結ぶことになった。

これを記念して演奏旅行で日本を訪れたのがドレスデン国立管弦楽団であり、この機会に私は師匠と知り合いになった。

余談であるが、オーケストラ全部が箱根の温泉旅館に泊まって楽しみ、有楽町のガード下の免税店で色々な電化製品を
買ったのだった。

これは東西間の行き来が緩和されたということを意味する一方で、双方がお互いに外国であるということを
ある程度認め始めたということも意味するだろう。

それでも、西ドイツにとっては東ドイツは外国ではなく、西ドイツ大使館という言葉は使わずに、西ドイツの
「常駐代理部」という表現をしていた。

私自身が初めて東ドイツに入ったのは74年の7月のことであったが、印象としては、技術的には
日本よりも20年は遅れており、町が殺風景で、もうちょっと華やかさが欲しいな、というものであった。

急行列車を蒸気機関車が引いていたことも忘れられない。

ヨーロッパ訪問は初めてのことでもあり、そしてほとんど知られていない社会主義国に個人訪問をしたということで、
無意識に務めていい印象だけを求めていたのであろう、
あまり否定的な印象はなかったように思う。

これが実際に滞在して生活していた80年から85年になると悪い印象がかなり多くなるのだが。

さて、東ドイツでの生活であるが、欠点を列挙するのに苦労しないほどだが、一言で言えば、
慢性的な物不足、劣悪な品質、労働者のやる気のなさ、西ドイツマルクの強さと言ったところだろうか。

詳しい話は別のコーナーですることがあるかもしれないのだが、全ては、「どんなに一生懸命仕事をしても、
外国どこへでも行けるわけでもない。

車を買おうと思っても、数年前までは7年待てば買えたのに、それが10年、12年待たねばならない。

自動車教習所に行くのにさえ4年半待たねばならない。

お店からはどんどん品物が消えていく。欲しい物が手に入らない。好きなことも言えない。

「なーにが全ては国民のためにだ。やってられねーよ」という感情が国民に蔓延しきっており、
どうにもならないと諦めきっていた。

ある時忽然とビールやワインがお店の売り場から消えたり、売り出されたばかりのはずの本が、
すでに横流しされて全く手に入らなかったり、結婚指輪でさえも、ドルショップで買うか、
あるいはどこかから金を調達して、それを指輪にしてもらうしかない。

音楽大学の学生は楽器が手に入らなかったり、という物不足。

肉屋では1時間並ばねばならない(これを社会主義待機団体と呼ぶ)。

レストランも同様で、相席は常識で、係りの人の指示があるまで入り口の前で待たされる。

店には腐った卵、しなびたりんご、ラッキョウみたいな玉ねぎ、すぐにだめになってしまう衣類しか
並んでいない。

電話はぜいたく品であり、職業上どうしても必要な人以外はほとんど持っていない。


「それは私の仕事ではない」「お気の毒ですができません(本当はやりたくないから)」、と言う
仕事のやる気のなさ。

それどころではない。
全てとは言わなくとも、デパートなどの店員などは、お客の顔を見ても、同僚とおしゃべりをして何もしない不親切さ。

仕事に出たくなければ、仮病を使って医者に診断書を書いてもらうことに何も抵抗を感じない愚かさ。

老朽化し、崩れるままに放置されている歴史的建造物。

サービスエリアどころか、トイレさえもほとんどない、穴だらけのアウトバーン。

テレビをつければ、「生産量が向上した(売れない物をいくら作ってもしょうがないだろう)」
「資本主義社会ではこのようなひどいことが起こっている。だから社会主義は間違いないのだ
(だったら、どうして彼らよりもずっとひどい生活をしていなければならないのだ?)」
「西側諸国では公害がひどく、資本家は市民たちがその被害を被っているのに、全く無関心である
(この国ではそれどころじゃないだろう。どこへ行っても煤煙はひどいし、特に石炭火力発電所のある町では
鼻が曲がりそうに臭いのはどういうわけだ?  これは公害ではないのか?
ああそうか、この国には、公害という基準がないから公害はないわけだ)」という嘘八百と
味気のないニュース。

西ドイツマルク、米ドルなどがあれば、インターショップと呼ばれるドルショップで西側の高品質な
製品が色々購入できる。

12年待たねばならない自国のトラバントという車でさえも、西側の金があればすぐに購入できる。

水道工事などをしてもらうにも、公的な機関はなかなかやってくれない。仕方がないから職人に闇で
やってもらうしかない。

それには西側の金を払わねばならない。「同じドイツ人でも、西と比べてなぜこのように違わねばならないのだ?
なぜ変わってはいけないのだ? 社会主義なんかくそ食らえ!」と思っても、それを叫ぶことは許されない。

下手をすると「シュタジー」と呼ばれる、シュターツジヒッヒヒャーハイツ(国家保安部)」にしょっぴかれて豚箱入りだ。

結局は現実から逃げようと、職場などの公的な場所ではできるだけいい加減に、当たらず、触らず、遅れず、休まず、
仕事せずで過ごし、家庭内や友人たちと歓談したり、西側のテレビ番組を見る(ドレスデンの周辺はそれも見れなかった)
といった私的な場所に逃げ込み、政府に対するブラックジョークを色々話しては溜飲を下げるのである。

それでも東ドイツは社会主義国では優等生と言われており、ポーランド、ブルガリア、ルーマニアなどからの
労働者が結構いた。

このような状況が慢性的に続けば、決して良くならないことは明らかである。

特に73年の石油ショック以降からその酷さに拍車をかけたと聞いている。

すでにヴァルター・ウルブリヒトは去り、彼の寵児であったエーリッヒ・ホーネッカーが1971年から
書記長の座についていた。






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