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ドイツ個人旅行のガイド藤島が体験したベルリンの壁のお話です。


1989年11月9日の崩壊したベルリンの壁について、1980年から85年まで旧東ドイツに住み、
現在では個人旅行のお客様を観光案内しているガイドが、ベルリンの壁の建築から崩壊、そしてドイツ統一までの
歴史をつづります。






ベルリンの壁の話 その3

1961年8月13日にベルリンの壁の建築が始められたのだが、最初は有刺鉄線が張られ、
その前に民兵が立ち、東から西への通行を遮断する、という形で行われた。

いくらなんでも東西ベルリンを分断する約45キロと、その他の西ベルリンの周辺約120キロを、
最初からあのような壁で囲むことはできない話である。

そういうわけで、最初の幾日間は鉄条網の隙間をくぐったり、下水道を通って西側に2万5千人が逃げることができた。

監視している兵士があっという間に持っていた銃を捨てながら有刺鉄線を越えて西側のバスに乗り込んだこともある。

特に興味深いのは、あの有名なベルナウアー通りである。

この道は西ベルリンに属し、道沿いの家並は東ベルリンに属していた。

要するに、この家の窓から飛び下りれば、西側に逃げることができるのである。

このチャンスを逃すまいと、多くの人たちがこの窓から飛び下り、下には消防士たちが大きなマットを広げて受け止めた。

飛び下りようとする女性を阻止しようと東ドイツの警官がその腕を取って引き上げようとするのを、西側の人たちが
足を引っ張って逃げさせようとしているフィルムが良く映し出される。

まもなくこの家並みの西側に沿った窓はレンガで埋められてしまい、その後ここに住んでいた人たちは強制的に
引越しさせられて、この家並みは完全に破壊されてしまった。

このような逃げるチャンスも、鉄条網がコンクリートブロックに変えられ、壁の回りが整地されるようになってからは
だんだん小さくなっていく。

これも有名な場面だが、壁の建築に従事していたペーター・へヒターという左官職の若者が、1962年8月17日に
壁を越えようとして国境警察に撃たれ、壁の下にそのまま55分間放置され、失血死するのを彼の母親、
そして多くの西ベルリン市民が目撃した。

彼が助けを呼んでいるその間、連合軍関係者も東ドイツ国境警察も何の手も打たず、死亡してから東ドイツ国境警察が、
その死体をどこかに運んで行ったのだった。

その間にも壁は3.5〜4.2メートルのコンクリート壁や鉄条網に代えられ、その間には警察犬、監視塔などを
備えた幅の広い国境地帯を真昼のように証明が照らされ、壁を越えることはほとんど不可能になってしまい、
完全に陸の孤島となってしまった。

こうなれば他の方法しかない。逃げるには大きく分けて以下の方法がある。

A.検問所を何らかの形で通る
B.トンネルを掘る
C.空路を使う
D.海を超えて逃げる
E.合法的に出国したまま帰らない

いくつかの例を列挙すると:−

A.検問所を何らかの形で通る方法
1.西ベルリンの友人、あるいは肉親が車で入国し、スーツケースを2個つなげてその中
に潜んで逃げた。

2.車のガソリンタンクを抜いて、数リットル入るものだけのものと交換し、その隙間に
身を潜めて逃げた。

3.ケーブルドラムや、荷物の中に身を隠してトラックに乗せてもらって逃げた。

4.車の窓、ボディを鉄板で補強し、検問を強行突破した。

5.車体の低いスポーツカーを使って、検問所の遮断機の下を通り抜けた。

6.アメリカ軍やソ連軍の軍服を自作、あるいはどこからか手に入れて、そのまま何食わぬ顔で検問所を
通って逃げた。 

7.逃亡を請け負ってくれる業者がおり、多額の金を払って偽造した西ドイツのパスポートを使って、
ハンガリーやチェコなどの出国があまり厳しくない国から脱出した。

失敗例:検問所でトランクや座席、ガソリンタンクなどを徹底的に調べられて発覚した。

B.トンネルを掘る方法
西側からトンネルを掘り、壁の地下を通って東側に抜け、どこかの家の裏庭とか地下室などのような
目立たぬ場所まで掘り、そこから東ドイツ人を救出する。

この方法は2〜3の成功例があり、ひとつはアメリカのテレビ局NBCがスポンサーになり、
工事や救出の模様を撮影し、全世界に放映された。

トンネルを掘って逃げてきた時の映像

失敗例:トンネルを掘るにはかなりの費用、時間、そして協力者を必要とし、その協力者の中に
東ドイツのスパイがいたために、脱出するその日に東ドイツ領内のトンネルにいた西ドイツ人は国境侵害、
そして逃亡しようとした人は国家逃亡未遂で捕まり、東ドイツで裁判、処罰を受けた。

C.空を越える方法
1.北ドイツで、全く飛行機など操縦したことのない男性が、農業用のセスナ機を略奪して西ドイツの 小さな飛行場まで飛んで行った。

2.東ドイツ空軍のパイロットが、訓練中にコースを外れて西ドイツの飛行場に着陸した。

3.1979年、二家族7人が、その当時では世界最大の熱気球を自作し、風に乗って国境を越えて
西ドイツに着陸した。
「ご感想は?」「二度とやりたくない」というものだったそうである。

熱気球で逃亡した家族のドキュメント

4.三人兄弟のうちの二人が何らかの形で西ドイツに脱出、末弟を脱出させるためにウルトラライトプレーンを使い、
東ベルリンの公園に着陸し、弟を乗せて西ベルリンに飛び帰った。この時の模様はビデオカメラに収められている。

5.壁に最も近い場所にある建物の屋上から、西側にいる人と示し合わせた場所にロープを張り、
それに滑車を取り付けて西側に滑って行った。

失敗例:壁が開く直前の話だが、バイクのエンジンを2個使用して双発の飛行機を自作し、
逃亡の一日前に発覚してつかまった。
この飛行機は現在ミュンヘンのドイツ博物館に展示されている。

D.海を越える方法
1.海を20キロ以上も泳いで渡り、デンマークの漁船に拾い上げてもらった。

2.二人の若者が、それぞれ手製のサーフィンボードで、デンマークの海岸まで波に乗って渡った。

3.バイクなどのエンジンを使った手製の小さなU-ボートを使い、デンマークの方まで渡った。
この人は後に、このU-ボートを特許にとって世界中に販売し、日本でも売りに出されたことがある。

失敗例:私の知り合いの知人親子は手漕ぎのボートで渡ろうとしたが沿岸警察に捕まった。

E.合法的に出国したまま帰らない。
1.音楽家やサーカスの団員が演奏旅行などで西側に出た時、そのまま団から別れて西ドイツ大使館にかけ込み、
西ドイツ国籍をもらってから、西ドイツに出してもらう。

2.西ドイツに住む自分の両親、あるいは叔父叔母の銀婚式や金婚式のお祝いのために、特別許可をもらって
西ドイツに出て、そのまま帰らない。

東から逃げてきた人たちは、西ドイツ政府が東ドイツを外国扱いをしていなかったために、すぐに西ドイツの
国籍をもらえたのである。その数5千人以上と言われている。

どのようにして東から西に逃亡したかを知るには、是非ともベルリンのチェックポイントチャーリーのそばにある、
壁博物館を訪れることをお勧めする。

そして逃亡に失敗し、ベルリンの壁を越えて逃げようとした人だけでも、射殺されたのは少なくとも80人、
負傷した人は少なくとも118人、そしても逮捕された人は3千人以上で、国家逃亡未遂ということで
刑務所に入ることになったが、たとえば家族連れで捕まり、その子供がまだ幼かった場合には、両親が刑務所に入り、
子供が強制的に見知らぬ人に養子に出されることもあった。

両親が刑務所に入っているだけなら、孤児院に子供を預ければいいようなものであるが、そうではない。
反社会主義的な両親の元に置くのは子供の教育上よろしくない、という理由である。

こうして親子は完全に引き離され、親が刑務所を出てから子供の養子先を当局に問い合わせてもなしのつぶてであった。

壁が開いた後に、その子供を見つけることもできた人もいるのだが、再会そのものはうれしいとしても、
もはや親子の感情は持ち合わせてはいない、という悲劇も起こった。

逃亡未遂をして逮捕された人たちのほとんどは、ある程度の期間監獄に入れられた後に国籍を剥奪され、
西ドイツに追放された。

西ドイツに出たいが、国境で撃ち殺されたくない、という人たちにとって最も簡単な方法は、西ドイツに抜ける
列車に乗り込むだけでよかった。

この列車に東ドイツ最後の国境の駅まで乗っていけばいいのである。

東ドイツでは、国境の5キロ以内には特別許可がない限りは入ってはいけないことになっており、国境警察に、
「自分は西に出るつもりでいる」と言えば、その場で逮捕されて刑務所送りになるのである。

そこまでしなくても良い。ベルリンの検問所に行って、「西ベルリンに出るつもりである」と国境警察に言うだけでも
よかった。

そこですぐに逮捕され、ある程度の期間服役した後に、晴れて西ドイツに追放されて東から脱出できたのである。

知り合いの話では、彼の友人が小船を漕いで海に出たが逮捕され、5年の懲役を宣告されたが、1年半ほど過ぎてから
列車に乗せられ、「どこか他の刑務所に移されるのかな」と思っていたところ、しばらくして急に列車が停車し、
警官が入ってきて、「こんばんは。ここは西ドイツです」と言われてびっくりしたそうな。

また、知り合いのバスの運転手は、この囚人たちを東ドイツから引き取りに行く仕事をしていたそうで、
国境を越える際には、ボタンひとつでナンバープレートが変わるようになっていたと、まるでスパイ映画を
地でいくような話をしてくれた。

これにはちょっとした裏話があり、壁ができてからは、西ドイツ政府が東ドイツで服役している政治犯を
釈放してもらう代わりに金を払っていた。

これを「Freikauf(フライカウフ、自由買い)」と呼び、東ドイツは政治犯を西側に売っていたのであるが、
東ドイツ政府は政治犯ばかりではなく、刑事犯までを西側に売っていたそうである。

東にとって都合の良くない人間は西に売り飛ばしてしまえば、一石二鳥というわけである。

このFREIKAUFのために、西ドイツ政府は1963年から89年まで35億マルク(2450億円)払ったと聞いている。







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