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ドイツ旅行のエキスパートガイドがロマンチック街道を専用車でご案内します!!
ドイツ個人旅行のリムジンサービスの日本人ドライバーガイドとして25年間に渡り活動している私ですが、
すでにロマンチック街道のご案内は、ざっと数えて400回ほどになります。
ローテンブルク、ディンケルスビュール、進撃の巨人のモデルになったネルトリンゲン、そしてメルヘンのお城として
あまりにも有名なノイシュヴァンシュタイン城、世界遺産のヴィース教会などの見どころをゆっくり観光いただけます。
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ロマンチック街道の話 その2
このロマンチック街道、何を持ってロマンチックとするか?
「ロマンス街道」というお客様もいらっしゃるし、ローマに通じるのでロマンチック街道である、
と言う案内をしているガイドさんもいるそうです。
が、まあそれはそれとして否定はしませんし、自分には否定する根拠もあるわけでもありません。
あくまでも私がお客様にロマンチック街道の話をどう説明しているか、ということを述べようと思います。
従って、これが正解であるとは思ってはいないと同時に、まんざらうそでもない、と考えているのですが。
あくまでもお客様に納得してもらい、ドイツの印象をさらにいいものにして頂きたい、という考えから述べています。
お客様は歴史の勉強に来たわけではないのですから。
というわけで、ロマンスのことをドイツ語では「ROMANZE(ロマンツェ)」と言い、あくまでも「ROMANTISCH(ロマンティッシュ)」
であり、「小説の中に出て来るような」という意味なのです。
日本では、「男のロマン」などという表現をしたりするのですが、このロマン、ドイツ語では「ROMAN(ロマーン)」と呼び、
「小説」という意味なのです。
音楽の世界ではシューベルトあたりから始まる「ロマン派」というのを中学校で教わった。
何がロマン派なのか?そしてなぜロマン派と呼ばれるのか、おそらく教えている方もあまりよく分らなかったの
ではないか、と思っています。
このロマン派が出てきたのは約200年ほど前のことになります。
歴史的には、1978年にフランス革命が起き、その後にナポレオンが登場して、フランス軍がヨーロッパ中を
引っ掻き回し、それまで900年ほど続いていた「ドイツ民族の神聖ローマ帝国」‐約200の諸侯と
85の帝国自由都市(ハンザ都市ブレーメン、ハンブルク、リューベック、あるいはアウグスブルク、
ローテンブルクなどに代表されるひとつの町がひとつの国であり、大商人が寄り合いを作り自分たちで自治を行なう、
というシステムを取っていた町があり、同様に日本にも堺という町があった)があり、合計約300ほどの国に分かれていて、
その頂点にオーストリアのハプスブルク家が皇帝として頂点に立っている、非常にゆるやかな集合体を作っていました。
これがナポレオンによって崩壊させられ、ドイツ全土がフランスの傘下に置かれてしまうことになったのです。
この時代がフランスの占領下に置かれた、ということで政治的には最も暗い時代だったのですが、文化的には
花が咲き始めた時代でもあったのです。
いわゆる文化人と呼ばれる人たちは、「古くから宗教と政治が分離して統一がなったフランスやイギリスに
遅れを取ってしまった駄目なドイツ、遅れたドイツ。結局はそのために外国の傘下に置かれてしまったのだ。」
と嘆き悲しむことになりました。
「いやいや、嘆き悲しんでもいられないだろう。今でこそフランスに蹂躙されてはいるものの、
もともとドイツ人というのは世界でも非常に優秀で、文化的にも政治的にも引けを取らない、取らなかったはずだ。
我々はドイツ人としての誇りを忘れないように、今こそドイツ人としての誇りを取り戻す時がやってきた。」というわけで、
「本当にドイツ的なもの」あるいは「民族、独立、統一」をテーマに分化活動を始めるのだが、それをどこに求めたか、
と言えば、「中世」に求めた。騎士階級が活躍した頃、十字軍遠征があった頃はドイツがヨーロッパの文化的、
政治的中心であり、皇帝の下に皆がまとまっていたではないか、というわけで、この時の話を題材にして文化活動を始めました。
フリードリッヒ・シラーはスイスの「ウイリアム・テル」伝説を元にして創作をした。シラーはスイスに行ったことがないのですが、
このウイリアム伝説がドイツの独立、民族運動、統一というテーマにふさわしい、ということでこれを戯曲化し、
後にロッシーニがオペラにすることになりました。
ゲーテは実在の片腕の騎士「ゲッツ・フォン・ベーリッヒンゲン」の戯曲を書き上げ、デビュー作としました。
そして日本ではあまりなじみのない人達ではあるが、アヒム・フォン・アルニムとクレメンス・ブレンターノは
ハイデルベルクに滞在していた時、「子供の不思議な角笛」というドイツの歌集を編纂し、この挿絵を書いたのが
グリム兄弟の末弟ルートヴィッヒである。この歌集に影響を受けてドイツのメルヘンを集めたのがヤコブとウィリヘルムの
グリム兄弟だったのです。
一番分りやすいのが音楽の世界でしょう。いわゆる「ロマン派」と呼ばれる時代、フランツ・シューベルトはゲーテを
はじめとするドイツの詩に作曲をし、ドイツの詩のすばらしさ、音楽のすばらしさを民衆に訴えました。
そしてカール・マリア・フォン・ウェーバーは「魔弾の射手」というオペラを創作したのです。
これはドイツ人がドイツを舞台とし、ドイツ語で書いた最初のオペラであり、このオペラが上演された時は
一大センセーションを巻き起こした、と言われています。
観客は「自分たちの忘れていたドイツの世界がこんなすばらしいものであったのか。」と感激し、超ロングランとなります。
今で言うミュージカルで言えば屋根の上のヴァイオリン弾きでしょうか?
このオペラが最高潮に達したのは、何といってもワーグナーのオペラであろう。ジークフリート、ワルキューレ、
ラインの黄金、パルシファル、タンホイザーその他。
すべては中世の英雄伝説、あるいはそれに類する物語から取ったものです。。
日本で言えば、源義経、武蔵坊弁慶、秀吉のようなものであり、早い話が「大河ドラマ」というわけなのです。
それではその中世の物語にふさわしい場所がないか?と探す人たちが出て来るのは当然であろうし、そういう所に、
それこそ「ロマンを求めて」行ってみたい、と考えるのは当然でしょう。
それまでは非常に貧しかったが故に中世の町並みが残ってしまった、という町が脚光を浴びるようになり、鉄道も通り、
温泉の効用も認められ、そして旅行をする事が一般的になって来たことも手伝って、観光客が訪れるようになるのです。
ドイツの戦後の高度成長時代は1950年代の後半あたりから始まるのだが、1955年にドイツ観光局が
休暇で旅行する人たちのために、色々なコースを考えだし、それにそれぞれ名前をつけたのですが、
この中世の町並みが点在するヴュルツブルクからドイツの南端フュッセンまでの田舎道をロマンチック街道と名づけ、
1970年代から日本に大々的に宣伝をしはじめました。
そして1985年あたりからは日本人の観光客が大勢訪れるようになり、何を隠そう、今ではローテンブルク、
フュッセンの人たちは日本人に足を向けて寝れないほどにやって来るようになった、というわけです(これホント)。
さらには、最近はロマンチック街道バスツアーと言う定期便もあり、個人旅行の方も増えているようです。
日本では大河ドラマで、たとえば、「織田信長」を放送したとすれば、どこかの旅行会社が「織田信長の歴史をたどる」
という感じでバスツアーを募り、長良川の鵜飼を見て、名古屋城を見学して、おいしい味噌カツ丼を食べて、
きしめんをお土産に買って帰る、という事を、ドイツでは、「ロマン」あるいは「オペラ」という形でやっていた、
という説明を私は日本からのお客様にしています。
あくまでもドイツのロマンチックは「中世の物語」から来ており、ロマンチック街道は「その町並みが並んでいる街道」
という意味なのです。