ドイツ個人旅行のガイド藤島が体験したベルリンの壁のお話です。
1989年11月9日の崩壊したベルリンの壁について、1980年から85年まで旧東ドイツに住み、
現在では個人旅行のお客様をご案内しているガイドが、ベルリンの壁の建築から崩壊、そしてドイツ統一までの
歴史をつづります。
ベルリンの壁の話 その1
ベルリンの壁が崩壊したのは1989年11月9日のことだが、この壁がどのような物であったのか、
どのような原因で作られたのか、そしてどのような形で崩壊したのかを説明する必要があるだろう。
1983年に両親と叔母が東ドイツに住んでいた私を訪ねて来た時、ベルリンの壁博物館に行き、
西ベルリンはどういう状況に置かれているかを説明したのだが、母には分かってかもらえなかったし、
東ドイツ人がちっとやそっとで西側諸国に出れないということは、この3人は理解できなかったようである。
そういうわけで、東西ドイツが建国された経緯から始めるのがいいのではないかと思う。
1939年9月1日にドイツ軍がポーランドに侵攻し、第二次世界大戦が始まったのだが、それと同時に
ソ連軍がポーランド東側に侵攻し、あっという間にポーランドは両国の占領下に置かれてしまった。
このポーランド東部のソ連占領下に置かれた部分はそのままソ連領になり、ここに住んでいたポーランド人は、
戦後ポーランドに割譲されてしまったドイツ領、シュレジア地方などに移住したそうである。
早い話が、ポーランドの領地は西にずれてしまったということである。
そしてドイツ領であった東プロイセンはソ連に割譲されてしまった。
戦後には、オーストリアと東ドイツの部分がソ連、西ドイツの部分はアメリカ、イギリス、フランスの
管理下に置かれたのだが、ベルリンもベルリン協定により、この4カ国の管理下に置かれた。
東ベルリンの部分をソ連が、西ベルリンの部分をアメリカ、イギリス、フランスが管理することになったわけである。
それまでには東西ドイツでは同じ通貨が使用されていたのだが、1948年6月20日には西ドイツと
西ベルリンで通貨改革が行われ、西のD-マルクが導入され、一人当たり40D-マルクだけが支給された。
すぐに続いて東側でも行われたが、デノミで、それまでの10マルクが1東マルクと制定された。
それと同時にソ連は6月24日に、西ドイツから西ベルリンに通じる陸上の交通を全て封鎖し、
200万人の西ベルリン市民を兵糧攻めにした。
これに対抗し、アメリカはクレイ将軍の下に、西ドイツから輸送機を使って生活物資を空輸させ、
それが49年の5月12日まで続いたのである。
これをベルリンの空の架け橋と呼んでいるが、ベルリンのテンペルホーフ空港には、昼夜を分かたず
90秒おきに飛行機が着陸し、述べ約27万回に及んだということである。
ここの空港とフランクフルト空港にはその記念碑が立っている。
ベルリン大空輸の映像
輸送機のパイロットたちは着陸する前に、ハンカチで作ったパラシュートにチョコレートなどをくくりつけて
ベルリンの子供たちのために落としてあげるというアイデアを考案し、子供たちに非常に喜ばれ、
子供たちはわれ先にパラシュートに飛びついたということである。
一応、この時代も東ドイツ人は西ベルリンに出ることができたのだが、常に東側で持ち物を検査されたそうである。
1949年には西ドイツ連邦共和国、いわゆる西ドイツが、その直後にドイツ民主共和国、東ドイツが建国され、
東ベルリンがその首都と宣言された。
この後、西ドイツと東ドイツの国境には柵などが1378キロにわたって張られ、通行はかなり難しくなったのだが、
西ベルリンだけは、ベルリン協定によって境界線はあったものの、通行は自由に行われていた。
その後西ドイツ、西ベルリンは戦後マーシャルプランによって復興が急ピッチで進められ、コーヒー、
ピーナツバター、チョコレート、脱脂粉乳などが入った1100万個の援助物資がアメリカから届けられたりと、
将来への生活の展望がかなり見えてきた。
それに比べ、東側ではソ連が戦後賠償として、ドイツからかなりの物を撤収して本国に送り込んだ。
たとえば、色々な工場などの設備、プラント、複線の鉄道は片方の線路を取り外して運んだ。
水道の蛇口まで持って行ったとも聞いている。
無理もないだろう。散々ひどい目にあったのだから。
それに比べ、アメリカは本国はほとんど攻撃されることはなかった。
西ドイツはゼロから出発したのならば、東ドイツはマイナスから出発したと言えるだろう。
東ドイツはソ連の指導のもとに(東ドイツはよくこういう呼び方をした)、共産主義的システムを取り入れ、
農場の国有化(早い話が地主からの没収)、資本家から工場などを没収して国営化を進め、
労働者たちはそのシステムに沿った労働を課せられた。
一番の例がノルマと称されるものである。
ところが、1953年6月17日、東ドイツ政府が給料を値上げすることなく、10パーセントのノルマを
追加するという通達に対して、スターリンアレーの建設労働者たちがこれを拒否、このノルマの撤回、
消費財の値下げ、自由選挙などを要求してしてストライキを起こし、それが瞬く間に東ベルリンはもとより、
全国的に広がった。
このデモは比較的平穏に行われたのだが、東ドイツ政府は、これに対して弱みを見せてはならないとばかり
強烈に反発し、ソ連軍の出動を要請した。
デモ隊は戦車に投石したり、戦車の無限軌道に石や鉄棒を挟んで抵抗したが、戦車と石では勝負にはならず
鎮圧されてしまった。
1953年6月17日の東ベルリンにおける暴動
西ベルリンに駐屯する連合軍は、これに手出しをしなかった。
冷たい戦争の最中であり、これが熱い戦争に発展するのを恐れたのである。
この暴動で約50人が死亡したと聞いているが、東ドイツ政府はこの暴動を、帝国主義的な西側陣営の
煽動家たちによって挑発されたものであると宣言し、その主犯であるとされた者たちを国家反逆罪、
反共産主義的な煽動などのかどで死刑にした。
その後西ドイツはこの6月17日を「ドイツ統一の日」という祝日に制定した。
こうして東西ドイツはソ連とアメリカの巨大国に分断され、全く違った道を歩み続けることになったのだが、
西ベルリンは言うなれば、東ドイツの中にある飛び地のようなものであった(一応まだ出入りはできたので、
孤島ではなく、飛び地と呼んだほうがいいだろう)。