ドイツ語の翻訳の話 その2
「チェロを弾く少女アニタ アウシュヴィッツを生き延びた女性の手記」
アニタ・ラスカー=ウオルフィッシュ著
原書房刊 2003年1月31日配本予定
2001年の5月にハンブルクまでお客様をご案内してその帰り道にアンネ・フランクが亡くなった
ベルゲン・ベルゼン強制収容所跡を訪れた。
アウシュヴィッツ、ダッハウ、ブーヘンヴァルトなどの収容所とは違い、ここには資料室と集団墓地があるだけで、
収容者の住んでいたバラック、ガス室、焼却場などは全くなかった。
この資料室である一冊の本を購入した。アニタ・ラスカー=ウオルフィッシュ女史による
[Ihr sollt die Wahrheit erben(あなたたちに真実を伝える為に)]というタイトルだった。
特にこの本に興味を覚えていたわけではない、読んでみたいと思った時に手元にないのもいやだし、
暇があったら読んでみようか、という感じで購入したのである。
自分自身ヒトラーの時代の歴史に興味があり、一九九九年頃からドイツ第二放送局でグイド・クノップ氏
企画製作の「ヒトラーの共犯者(これはNHKでも放送されたらしい)」、「ヒトラーの戦士たち」、「ヒトラーの子供たち」、
「ホロコースト」などの連続ドキュメントが続々と放送され、それに関連する本を好んで読んでいた。
そして「ホロコースト」の放送終了後に討論が行なわれ、その際に著者が「ベルゼンは人間があっさりとくたばる所だった」
と発言したことをよく覚えていた。
ところが二〇〇一年九月十一日、ニューヨーク貿易センターでのテロが発生して以来、日本からヨーロッパを
訪れる旅行客が激減し、従来の仕事である通訳ガイド業の仕事が暇になってしまった。
人間暇で金がなくなるとろくな事を考えなくなるものである(飛行機を乗っ取ってビルに体当りしたり)。
自分のドイツ語の能力を向上させるべく翻訳をしてみよう(悪あがきのようにも感じるが)、と思い立ち、
取り出したのがこの本であった。
このような本一冊を訳すなどという経験は全くなかったのだが。
読んでいて頭の中では理解しているつもりでいても、その場面で最も適切な日本語を探し出して文書にする、
ということがこれほど大変なことであるとは全く想像もつかず、大学時代のドイツ語の教授による、
「通訳、翻訳をするには、まずきちんとした日本語ができなければならない」という言葉を
思い知らされる結果になった。
そのような難しさにもかかわらず、内容は、日本人が全く知らないであろう、収容所のオーケストラ、
収容所でカナダと呼ばれる場所、そしてベルゲン=ベルゼンの模様など、読んでいくにつれて興味はつきなくなり、
いつの間にかその中に引き込まれ、とうとうこの一冊を訳してしまったのである。
ホロコーストをテーマにした刊行物は非常に多いのであるが、このような少女が体験した
記録は稀有なものと思われる。日本でユダヤ人の少女といえば、アンネ・フランクが有名であり、
彼女はアムステルダムの隠れ家での生活の模様をその日記に書き綴ったのであるが、実際に強制収容所の生活を体験し、
生き残った少女の記録は全く日本では出版されていないだろうと考え、厚かましくも「ヒトラーの共犯者」、
「ヒトラーの戦士たち」を発行した原書房に日本での出版を相談させていただいた。
偶然ではあるが、何年か前にフランクフルト書籍見本市インフォメーションカウンターで通訳をした際に
原書房の方々と名刺交換をし、それまで原書で読んでいた「ヒトラーの共犯者」の訳本を発行したのが原書房であった、
という偶然から原書房に相談したところ、それが実を結ぶことになった。
著者のアニタ・ラスカー=ウオルフィッシュ女史は現在でもホロコーストの証人としてドイツ各地で開催される朗読会、
講演に精力的に活動しており、私もある町で行なわれた朗読会に出席し、個人的にお話するという幸運な機会がえられた。
女史はすでにかなりの高齢であり、小柄な女性であったが、毅然としており、その目は非常に澄んでいると同時に
鋭い印象を受けた。
女史本人は本書で「生き延びられたのはただ幸運だったから」と述べているのだが、やはりその幸運を引き寄せる
何かがあったのだろう、と私には感じられた。
女史は現在現役を退いてはいるが、バッハのマタイ受難曲が演奏される際にはオーケストラから要請がなされ、
出演しているそうである。
本書はアンネ・フランクとほぼ同世代の少女が体験した非常に貴重な記録であり、そういう意味においては、
アンネの日記を読んだ方々が、彼女がアウシュヴィッツでどのような生活を送り、ベルゲン=ベルゼンで
どのような最後をとげたのだろうか、ということを知る上でも重要なものであると思われる。
その意味では、十代の人たちに是非とも読んでいただきたい本である。
こう書いているとこの本の宣伝のように思われるかもしれませんが、実は宣伝なのです。
「全国のチェロ奏者一読せよ!」まさに「芸は身を助ける」、「一難去ってまた一難」、
「真実は小説よりも奇なり」という言葉を地で行っている絶対面白い、そして感動的な物語なのです。
ベストセラーにすべく皆さん一生懸命購入して下さい。一冊1600円、皆で居酒屋に行く代わりに
誰かの家でこの本の内容を肴にして感動を分かちあるのもいいのではないだろうか…。