ドイツ語翻訳の話 その1

旅行ガイド、リムジンサービスのドライバーガイドの仕事をしている時に、お客様に「本業は何ですか?」、
とよく聞かれることがある。

自分としては、いくらであっても金を稼いでいる以上、プロであり、その時点ではそれが
本業となっている訳で、「麻薬と人身売買以外は何でもやっていますが、今の時点では
ガイド業ですよ。」と応えることにしている。

あくまでもフリーランスというわけであるが、結局はその日暮し、あるいは日雇いと同じようなもので、
そんなにかっこいいものではない。

唯一の利点といえば、ただであちこち行けて結構いいホテルに泊まれる、ということなのだが、
仕事で行っているので遊べない(当然だが)。

「どこそこへドライバーガイド行ってくれ、
あっちへドイツ語通訳に行ってくれ」。
どのような依頼があっても「オーケー!」という感じにしておかなければならない。その為に下見に行ったり、
あるいはお客様との会話に合わせるべく、ありとあらゆる情報を集めておく必要があるが、
幸いなことに日本でサラリーマン、東ドイツで音楽家の端くれとして旧東独で生活したことが非常に役に立っている。


事前にはドイツ語で書かれている資料を読むことになるのでドイツ語の辞書を引くこともかなり多い。

ある時、ジャン・ギャバンが主演するヴィクトル・ユーゴーの「レ・ミゼラブル」の映画がテレビで放映されていた。

原作は大学時代に読んでいたので、ストーリーは大体知っていたのだが、映画を見終えた時に、
「原作の方がずっと面白かったはずだ。」と思い出し、原作(ドイツ語版)を購入し、暇に任せて一回目はざっと読み、
二回目は分らない単語をマーカーで印をつけ、三回目は辞書を引きながら読破したら二年過ぎていた。

気の長い話である。それだけ面白い作品だった、ということだが。

ちなみにヴィクトール・ユーゴーがこの作品の売れ行きを出版社に問い合わせた時の文は、
「?」であり、その返事は「!」であったそうな。

それはともかく、このおかげで辞書を引きながら読む、ということがあまり苦痛でなくなった。

ガイドをしていると色々な人と知合いになることもあるし、色々な話が迷い込んで来ることもある。

ある時などは、「シュツットガルト名誉領事館から紹介されたのだが、日本製の薬品の説明書を翻訳して欲しい。」、
という依頼があった。
聞けば、「娘が交通事故で脳挫傷を受け、その治療薬が日本製のものしかなく、その説明書を訳して欲しい。」、
と言う話だった。

説明書自体はそれほど長いものではないにしろ、「適用」、「副作用」、「有効成分」、「摂取量」といった
いわゆる専門用語が多く、普段全く使用しない単語ばかりで辞書を引きながら、自分がいかにドイツ語ができないか、
ということを思い知らされながら何とか訳し終えた。

依頼主が自分の娘の為にわざわざ日本から取り寄せたものだ、ということでもあるし、自分の勉強にもなったことで
翻訳料は受け取らないでおくことにする。役に立てばいいのだが。

十年以上付き合いのあるワイン農家があり、ここの高級ワインをしばらく日本人観光客向けの免税店に
卸していたことがあった。
それがきっかけで日本でも少しずつワイナリーが知られるようになった。

そこでオーナーが豪華なパンフレットを作製し、日本語でも出したいので訳して欲しい、と依頼してきた。
最初はドイツ語の文章をそのまま訳してみたのだがどうも日本人にはしっくり来ない。

巻頭ページには「夾竹桃と無花果の花」と原文が掲げられているのだが、知人に相談したところ、
「夾竹桃とか無花果なんてのは誰も読めないんだよねえ」、というコメント。
その通りだ。ばっさりと切り捨て、「伝統と最新の技術」というタイトルにする。

アイスワインの収穫の模様をオーナーの友人が日記に書いたように訳したのだが、パンフレットや
ガイドブックの翻訳にはこういうテクニックも必要なのだろう。

原文とは全く違った説明のしかたになってしまうことがあるかもしれない。

これが技術的なものの説明を変に文学的にしたり、文学作品で自分の意見や感情を入れてしまうことになったら
困るのだが。

ところで、このパンフレット翻訳料の代わりにオーナーからおいしいワイン80本ほど頂戴した。

こちらでのワイン代金にするとそれほどではないが、日本だったらかなりの高額になる翻訳料である。

結局このワインは自分で飲んだり実家や友人に送ってしまい、あっという間になくなってしまった。