ケーニッヒスベルク





ケーニッヒスベルクの話

ケーニッヒスベルクと聞いて、その昔の東プロイセンの町を思い起こす人はいても、バイエルン州の
ハスフルトの隣村ケーニッヒスベルクを思い浮かべる人はまずいないだろう。

2度目のドイツ旅行をした1975年、ヴュルツブルクのユースホステルに泊まった際、
同室になったドイツ人から、「ケーニッヒスベルクには、見る所が沢山あるよ」、と言われて行ってみることにした。

こういう情報交換は、当時はヨーロッパについて書かれているガイドブックもほとんどなく、一人旅をする学生は、
2ヶ月間有効の、「スチューデント・ユーレイルパス」と、ヨーロッパのユースホステルのリスト、ヨーロッパの地図を
持って旅をし、ユースホステルで情報交換をするのが普通であった。

多くのアメリカからの貧乏旅行者は、唯一発行されている、「ヨーロッパ1日10ドル」、というガイドブックを持って旅行していた。

翌日、電車とバスを乗り継いで現地に到着し、ユースホステルで受付にいると、東洋人が珍しいのだろう、
小学2〜3年生の子供たちが寄ってきて、何やら話しかけてくるが、よく聞き取れない。

そばに居合わせた高校生の女の子が助け船を出してくれる。
この子も家族と旅行中だそうで、両親は町のホテルに泊まっているそうで、食事に招待してもらう、という幸運に恵まれた。
この家族には1980年に渡欧した際に、非常にお世話になった。

ドイツの夏は日が暮れるのが遅い。招待してくれた家族と一緒に町を散歩していると、家の地下から豚の鳴き声が
聞こえてきたりして、さすがは田舎だと思う。それに、住民が自宅の玄関前の階段に腰掛けて、
おしゃべりをしているのが見受けられる。典型的なバイエルンの田舎の光景だそうな。

翌日、再び写真を撮ったり、通りかけた中学生ぐらいの女の子にシャッターを押してもらいながら町の散歩を続けていると、
さっきの女の子が追っかけてきたので、お話しながら一緒に歩くことにする。
別れ際にその子が、「日本からお手紙ちょうだいね。でも、おばあちゃんに叱られるから、差出人の名前は書かないでね」、
とお願いされる。
「うん、いいよ」。

その後、この女の子とは何回かの手紙のやり取りがあり、1980年に看護婦として働いているスイスの
シャッフハウゼンで再会した。
チューリッヒのケーキ屋さんで、クリームたっぷりのケーキを本当においしそうに食べていた彼女、
「今ごろどうしているかなー。さぞかしふくよかなオバサンになったんだろうなー」、とたまに
思い出すことがある。