バリアフリーは誰のために?

20年以上前に一緒に仕事をした添乗員から問い合わせがあり、車椅子のお客様をリューデスハイムから
ロマンチック街道、ディンケルスビュールのキンダーツエッへという子供祭りを見てローテンブルクのホテルへ、
加えて、ヴィース教会とノイシュヴァンシュタイン城の観光案内、という2日間のご案内。

その途中、お客様からいろいろなお話を聞く。

お客様は交通事故でひざが曲がらなくなってしまい、歩けないことはないのだが松葉杖を突いてゆっくり歩くか、
車椅子での移動しか出来ない。

奥様と一緒にスーツケースを1個、車椅子という形での移動のため、かなりゆっくりな行程を組んでいるが、
リューデスハイムからディンケルスビュールに行ってキンダーツエッへを見てからローテンブルクに行く1日と、
ローテンブルクからノイシュヴァンシュタイン城を見てフュッセンのホテルにお届けする、という1日の2日間だけの
ご案内で、フュッセンからガルミッシュまではタクシーをチャーター、それ以外は電車で移動と言う旅行である。

で、食事の際に、「ドイツでは、あちこちでいろいろな人たちに親切にしていただいた」、というお話を聞く。

階段ではお二人の荷物や車椅子を持って頂いたり、と感激していたが、ドイツでは、車椅子の人や乳母車を
押している人たちを電車に乗る際に手助けするのは当然のことであり、それを日常目にすることが出来るからこそ、
「そういう時は自分も・・・」、と言う感じで誰でも自然に行うことが出来るのである。

日本では、まだこういう行動が誰でも自然に行っているわけでも、行える状況でもないだろう。

電車に乗っていると、「何であんな身障者を電車に乗せるんだ!」、と駅長に怒鳴り込む人間もいるらしい。
とんでもない輩もいるもんだ。

そんな奴こそ、「あなたのようなお客様は乗っていただけなくて結構です」、と言ってもいいだろうし、
そういう人間は名前がマスコミに公表されたら社会から抹殺されるだろうに。

なもんだから、なんとなく、「 手助けしてあげたいな」、と思っても憚る・・・。
これの悪循環ではないのだろうか?

「何となく憚る」、のは分かるとしても、やっぱりやってあげて欲しいんだよね。

そうすれば、誰かがそれを目撃して、「自分もそういう人を見たらお手伝いしよう」、と思う人が出るだろうし、
心無いことを言う人もいなくなるだろう。

一般の団体旅行に車椅子の人を見かけたら、若い人たちが介添えの人をちょっと助けてあげて欲しい。

まあ、自分たちの遊ぶ時間がなくなるのかもしれないけども、バスの乗降時とか、坂を上る時とかなどの場合は、
手助けをしてあげてもいいんじゃないかなー?そんなにきつい作業でもないだろうし。
新婚さんだったら、「わあ。私のだんな様、見直したわ」、なんて思われるかもしれない。

「お手伝いします・・・・」、と車椅子を押してあげる行為を見て、「じゃあ、私も・・・」、という感じの行為が
みんなで、それもごく自然に出来れば、何となく団体旅行での雰囲気が良くなるんではないかなー。


で、お客様の話を聞いて考えたのだが、いわゆる、バリアフリー、というハードの部分を考えた場合、
日本はかなり普及していると思うが、そういう、誰でもが自然に手伝ってあげるという、ソフトの部分が
まだまだなんですよね。

ちょっと考えたのだが、ドイツのバリアフリーというのは、本来の目的が、あくまでも身障者の不便さを
解消するためのものであったとしても、結果的には逆に、そのための手助けをする人たちの作業を簡単にする、
という結果になっているのかもしれない。

要するに、階段の脇にスロープを作ったおかげで、介助する人たちは身障者を抱えて階段を上り下りする
労力を必要としなくなり、身障者を車椅子のままでスロープを上り下りするだけになったわけである。
これによって、あまり体力に自信のない人でも、車椅子の方のために手を貸すことが出来る・・・。

というわけで、日本のバリアフリーは身障者のためにあり、ドイツのバリアフリーは介助者のためにある、
といってもいいのかもしれない。

ドイツには、「バリアフリーは身障者のためならず(介助者のためにある)」、ということわざは・・・・
あるわけないけどもね。







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